2003年8月17日日曜日

〔再録〕荷風と高見順


Kafu School News No18 荷風と高見順

今日8月17日は高見順が死ん だ日です(1965.8.17)。高見順は『如何なる星の下に』『いやな感じ』などで知られるエライ小説家ですが、永井荷風の従兄弟でもありました。なの に二人はまともに口も聞かなかったし、日記でお互いの悪口を散々書きあっています。どういう経緯なのか。とかく人のケンカは面白いので、野次馬根性を出し てみましょう。

まず高見順のご紹介をします。 『ニッポニカ』から抜粋すると次の様な人物。

「福井県の生まれ。明治40年当時の福井県知事阪本釤 之介(しんのすけ)の庶子として生まれる。母とともに上京し、府立一中、旧制一高を経て、東京帝国大学英文科に進む。東大では左翼芸術同盟を結成し、プロ レタリア文学。その後検挙され転向するが、妻に裏切られ精神的苦悩が重なる。戦争が長期化する中で逃れるように浅草生活に入り、浅草情緒を伝える作品を書 く。昭和40年8月17日癌で倒れる。日本ペンクラブや日本近代文学館の創設に尽力した」

この福井県知事の阪本釤之介は荷風のお父さん久一郎の 実弟です。荷風にとっては叔父に当たる。荷風が小さい時に小石川金富町の屋敷に同居していたこともある。もっとも高見順と荷風は30歳近く年齢が離れてい て、荷風はその存在すら知らなかったようです。ケンカになるような状況じゃないのですが、いったいどうしたのでしょうか。

荷風が最初に高見順を知るのは昭和11年8月27日の こと。『日乗』によるとこうなってます。

「東京茶房に小憩す。偶然この喫茶店の女給石田某とよ べる女の旧情人高見沢某なる人は余が叔父阪本三頻翁が庶子なる由を知りぬ。・・・文学者なりと云ふ。余は大正三年以後親類と交わらずを以て今日この時まで 何事をも知らざりしなり。」(註、名前を間違って書いてます)

続いて9月5日には次のような記述が:

「八月末の日記にしるせし高見氏のことにつき、その後 また聞くところあり。氏は近年執筆せし短編小説を集め起承転々と題し、今年7月改造社より単行本としを公にしたり。書中私生児と題する一小編は氏の出生実 歴を述べたるものにて、実父阪本翁一家の秘密はこれが為悉く余に暴露せられたりと云ふ。気の毒のことなり。阪本翁は余が父の実弟にて・・・儒教を奉じて好 んで国家教育のことを説く。されど閨門治まらず遂に私生児を挙ぐるにいたりしも恬として恥じるところなく、貴族院の議場にて常に仁義道徳を説く。余は生来 潔癖ありて、斯くの如き表裏ある生活を好まざるを以て三四十年来叔姪の礼をなさず、・・・・偶然高見氏のことを聞き、叔父の迷惑を思ひ、痛快の念禁ずべか らずなり。」

この叔父の阪本氏を題材にして荷風は「新任知事」とい う風刺小説を書き、以来荷風と阪本家は絶交となっていました。自分のお父さんに較べて、妙に要領がよく立身出世主義の叔父が気にくわなかったのでしょう が、「新任知事」は誰が読んでも阪本氏のことだと分かる。阪本氏も、最初は甥から筆誅され、次に自分の子供から悪く描かれては、実にお気の毒です。でも荷 風にとっては、敵の敵は味方であるはずですから、高見順は味方の筈なのですが、どうしてケンカしたのでしょう。

同じ年の10月16日、荷風は高見順より献本を受け 取っています。次の記述があります:

「高見順其著短編小説集女体を贈らる。晴れて風なけれ ば午後また落葉を焚く・・・」

一見何でもないようですが、後述する高見順の日記で分 かるように、荷風はこの献本に腹を立てています。荷風の高見順への印象は相当悪かったようで、以後日記で悪口が続きます。

「昭和15年2月16日。・・・谷中氏に逢ふ。同氏の はなしにこの日午後文士高見順踊子二三人を伴ひオペラ館客席に来れるを見たり。原稿用紙を風呂敷にも包まず手に持ち芝居を見ながらその原稿を訂正する態度 実に驚き入りたりと云ふ。・・・・(三上於と吉の愚談と)好一対の愚談なり」

「6月16日。・・・文士高見順という面識なき人、往 復葉書にてその作れる戯曲を上演すべし。会費を出して來たり見よというが如きことを申し来たれり。自家吹聴の陋実に厭うべし」

「9月13日。・・・オペラ館楽屋裏に至る。文士高見 順□楽屋に來たり余に交際を求めむとすという。迷惑甚だし。」

さんざんですが、理屈抜きに気に入らなかったのでしょ うね。でも荷風もこの日記を生前に刊行するのは、相当嫌味です。一方の当事者である高見順はどうかといえば、荷風が死んでから4年もたった時の日記でさん ざん荷風の悪口を書いて憂さを晴らしている。

『高見順日記』(昭和38年2月16日)では、 「(『断腸亭日乗』によれば)オペラ館の客席で私が原稿を書いたという。待合いで原稿を書いた三上オト吉と好一対だという。私はそんなキザな真似をした覚 えはない」

さらに続けて、

「荷風の私あての手紙を妻が押入から探し出してきて、 もってきたが、実に無礼な手紙だ。実にいやな奴だ。『女体』(昭和11年刊)を贈ったことに対する礼状だが、たとえば『御恵贈に与り御芳志難有存候』とあ る、その『御芳志』の『御』をわざわざ行の最後に書いてある。無礼極まりない」

真実はよくわかりませんが、どうも荷風の方が意地悪 だったと思います。嫌いな叔父の私生児ということに対する生理的な反発だったのでしょう。

でも手紙の「行かえ」の位置で嫌味を発信したり、また 受け取った方がそれに反応するとか、実に細かいというか、ここまで来ると嫌味も高等テクニックです。(ワープロだったらどうするのだろう?)

やっぱり二人は似たもの同士なのです。血は争えないの でしょうね。

Posted: Sun - August 17, 2003 at 06:26 AM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (2)  

2003年8月15日金曜日

お盆とお化けと「妙な予感」



今日はお盆である。年に一度ご先祖様の精霊が帰ってこられる日だ。いろいろ不思議なことも起こるらしい。個人的には今までそれほど不思議な体験をしたことはないが、ひとつだけ奇妙なことがあった。

子供の時、夏になるとお化けごっこをして遊んだ。スイカの殻に穴を開けてお面を作り、毛布を上から被せたお化け装束で人を驚かせたものだ。子供のやることだからご愛敬であり、大人は驚いたふりをするだけであったが、根が単純だからお化けを演じている自分の方が本気で怖くなってしまう。想像力を肥大させてお化けは実在すると信じて暗闇を恐れおののいた。馬鹿な子供である。

特に怖かったのは二階に上る階段であった。一番小さい子供だったから夜寝るのも一番最初であり、一人で二階に寝に行くのであるが、これが怖くて怖くてしようがなかった。階段には電灯があるのだが、スウィッチが下についている。二階では電灯を消せないので、一階で消してから階段を上ると言うなんとも非合理的な仕組みだった。途中に丸窓があって障子が入っているのだが、月明かりなどがそこから差し込んでぼうっと薄明るい。その丸窓を上に眺めながら階段を上がるのだがこれが怖かった。以来、お化けとは二階の暗いところにおって、まあるい頭をしてマントを被り、人を上から襲う、二階は怖いという確信に近い思いこみをもつようになった。中学生ぐらいになっても一人で二階に上がるのを嫌がったくらいである。要は弱虫ですね。

さすがに大人になってからはそういうことはなくなったが、40年たって、1995年1月16日の夜、久しぶりに帰った実家で寝たが、二階に上がる時、ふと小さい時のお化けを思い出した。「黒いお化けが上から被さってくる」イメージである。いやな予感がしたが、そのまま二階に上り寝てしまった。

翌朝早朝5時46分、突然大音響と共に窓からさす星明かりの中で、黒い物体が頭の上に覆う被さってきた。一瞬にしてこれがあの子供の時夢にまで見たお化けの正体だとわかった。阪神大震災で、寝ていた上にタンスが倒れ、その上に屋根が落ちてきたのである。まったく身動きとれなくなった。普通は一階が壊れるものだが、二階だけが崩壊した。子供の頃の二階にはお化けが出るとの確信と予感は、40年後にたしかに実現したのである。二階は怖いという子供の頃の直感はやはり正しかったのだ。

だから「いやな予感」とか「何か気が進まない」という直感はやはり正しいことが多いのである。あまり軽視しては駄目なのであるというお話し。

ちょっと怖かったですか? 散人は怠け者だからよくこんな話を持ち出しては、やらなければいけない仕事を「気が進まない」と言って怠けてきました。でもやはり「妙な予感」というのは当たるもんなのです。

ともあれ阪神大震災のあと実家は取り壊されてしまったので、今日はお盆ですが散人には帰るべき実家もなく余丁町で過ごしています。東京は夏だというのに朝から冷たい雨。とてもお化けの出る雰囲気ではありません。ゆっくり寝られそうです。

2003年7月31日木曜日

〔再録〕Kafu School News No16 「小説作法」


 Kafu School News No16 「小説作法」


出版不況だという。たしかに毎 月おびただしい新刊書が発刊されるがあまり買わなくなってしまった。買いたくなるようなものが少ない。どうも商業化が進んだというか、書くという仕事が職 業化してしまい、なんとか売って生活費を稼がねばならないという姿勢が、書籍に生活臭をプンプン臭わせるのだ。それが本を詰まらなくしてしまった。本来的 にアマチュアの分野である blog においてさえ「Blog を書いてカネを儲けられる時代が来るか? 」(結論はネガティブなものとなっているが)という問題提起が為されるくらいだ。世知辛い世の中になったといえばそれまでだが、昔もそうだったらしい。今 から83年前に永井荷風はそういう風潮を嘆き、諫めている(「小説作法」)。 

大正9年に書いた「小説作法」 とは数十項目に渡る「文章家たるものは・・・」というマニュアル。今で言う文章読本みたいなもの。各項目それぞれになかなか含蓄の深い言葉が連なってお り、人生読本としてもいい。この一項目に経済的な事柄について触れたものがある。ただあまりに正直に書いてしまったため、荷風は文壇から総スカンを食ら うことになった。でも鋭い。

<引用>
一 読書は閑暇なくては出来ず況や思索空想又観察にお いてをやされば小説家たらんとするものはまづおのれが天分の有無のみならず又その身の境遇をも併せ顧みねばならぬなり行く行くは親兄弟をも養わねばならぬ やうなる不仕合わせの人はたとへ天才ありと自信するも断じて専門の小説家なぞにならんと思ふことなかれ小説は卑しみてこれを見れば遊戯雑伎にも似たるもの 天性文才あらば副業となしても亦文名をなすとの期なしとせず青春意気旺盛の頃一二の著作評判よきに夢中となりその境遇をも顧みず文壇に乗り出でこれからと いふ肝腎な処にて衣食のために乱作し折角の文才もすさみ果て末は新聞記者雑誌の編集人なぞに雇われ碌々として一生を終わるものあるを思はばいったん正業に つきて文事に遠ざかるともやがて相応の身分となり幾分の余裕を得て再び筆を執るもなんぞ遅きにあらんや平素その心を失わずば半生世路の辛苦は万巻の書を読 破するにもまさりて真に深く人生に触れたる雄編大作をなす基ともなりぬべし支那の文学は離騒を始めとして韓柳の文李杜の詩に至るまで皆副業の産物なり西洋 の文学を見るもモリエールは旅役者なりけりヴォルテールシャトーブリアンの如き一代の文豪終生唯机にのみ向かひたる人にはあらず。
<引用終わり>

付け加えると、カフカもそうでしたね。保険会社のサラ リーマンでした。『カ フカ事典』(三省堂) が発売となりましたが、あまり知られていない彼の人生が書かれているようで良さそうです。

Posted: Thu - July 31, 2003 at 10:37 AM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (2) 

2003年7月5日土曜日

珊瑚集: 夜の小鳥 ポオル・ヴヱルレヱン



(L'ombre des arbres...) PAUL VERLAINE
荷風訳と原詩の対照と私註です。



『珊瑚集』ー原文対照と私 註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

原文        荷風訳
L'ombre des arbres... PAUL VERLAINE


Le rossignol, qui du haut d'une
branche se regarde dedans,
croit être tombé dans la rivière.
Il est au sommet d'un chêne et
toutefois il a peur de se noyer.
(Cyrano de Bergerac)

L'ombre des arbres dans la rivière embumée
Meurt comme de la fumée.
Tandis qu'en l'air, parmi les ramures réelles,
Se plaignent les tourterelles.

Combien, ô voyageur, ce paysage blême
Te mira blême toi-même,
Et que tristes pleuraient dans les hautes feuillées
Tes espérances noyées !

(Romances san Paroles

夜 の小鳥  ポオル・ヴヱルレヱン



鶯は高き枝より流れに映るその影を
眺め 水に落ちしと思ひて、
樫の木の頂にありながら常に溺れん
事のみ恐れき。
(シラノ・ド・ベルジュラック)


霧たち籠むる河水に樹木の影は
煙の如くに消ゆ。

その時影ならぬ枝の間より何処と知らず
夜の小鳥は泣く。
ああ旅人よ。いかに此の青ざめし景色は、
青ざめし君が面を眺むるらん。

いかに悲しく、溺れたる君が望みは、
高き梢に嘆くらん。 



[単語]
rossignolナ イチンゲール, 夜鳴きうぐいす
tourterelle:雉鳩

私註]
ナイチンゲールとは鶯の一種だったんですね。しらんかった。荷風は「鶯」 と訳してますが、さすがです。

雉鳩(山鳩)は荷風もよく知っていた思い入れのある鳥。荷風塾「荷風と山鳩」 でも書きました。知っているだけに夜啼くはずがないと思ったのでしょうね。「夜の小鳥」と訳しています。

最後の "Tes espérances noyées !" を「溺れたる君が望み」としているのはあまりに直訳調にも見えますが、やはりこれでないと意味が通じなくなります。翻訳とはむつかしい作業ですね。

(荷風訳は籾山書店『珊瑚集』より、原詩は岩波書店の 荷風全集より引用しました)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年7月4日金曜日

Le Monde ジョージ・オーウェル生誕100年と Blog



今年はジョージ・オーウェルの 生誕100年に当たるらしい(1903.6.25生まれ)。ル モンドのブロッグページ(Sur le Net) ではネットで入手できるジョージ・オーウェル関係の参考文献を列挙している。なかなか立派な図書目録である。原文テキストももちろん入手可能(グーテンベ ルグ図書館)。『動物農場』『象を撃つ』などが懐かしいが、何と言ってもすごいのは『1984』。いま読み返してもとても面白い。映画の「ブラジル」の底 本ともなった古典的名作である。あの中で「ニュースピーク」という人工言語を国民に使用させることで国民の思想統制を図るというくだりがあったが、「形」 が「内容」を決定すると言う意味で含蓄が深い。昨今流行の Blog に付いても同じことが言えるのかも知れない。

『1984』というのはSFで ある。40年後の将来社会はスターリン型の社会主義が支配する世界となっていた。国民は「ビッグ・ブラザー」と呼ばれるリーダーに日常生活すべてを監視さ れながら生きる。絶え間なく戦争が続いているらしい(本当のところは分からない)。ともかく戦争に勝利するためには国民はすべてを犠牲にしなければならな い。ケッサクなのはこの政府は古くさい英語を廃止して、合理的で例外が一切ない短くて能率的な言葉「ニュースピーク」を導入しようとしていること。真の目 的は国民の思想統制である。人間は言葉で考えるものであるから、言葉の構造が規制されるとその構造内でしか思考できなくなるのだ。いまだによく引用される テーマである。Google で調べると国語改革反対論者がオーウェルを引用して次のような論文を書いているぐらいだ。御笑覧↓

1984年』 より「ニュースピークの諸原理」 
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunken/1984.html
 

でもこのことからふと思いついたのであるが、今流行の Blog についても同じようなことが言えるのかも知れないということ。「ニュースピーク」はSF世界の国民にネガティブな影響を及ぼすのであるが、Blog は特に日本人の思考パターンにとっては逆によい影響を与えるのかも知れないのだ。Blog 形式の特徴としてタイトル、アブストラクト(要約)、本文の三つに分かれると云うことが重要である。

タイトルと本文は特にめずらしいものではない。問題は 「アブストラクト(要約)」。これは日本人はあまり書かないし学校の国語の授業でも要約の訓練は受けないのが普通だ。新聞記事のリードに当たるものだが、 新聞でも記者ではなくたいてい編集者が付ける。それで普通我々は本文だけを書くのであるが、多くの場合なかなかエンジンがかからないためか起承転結の 「起」の部分がだらだら続いてしまうことが多い。日本人の論文が分かりにくいと評される理由の一つだ。

ところが blog ではこれ(要約)を一番最初に書かねばならない。後から書いてもいいが、これが本文の一番上に表示されるので出だしてとしてまずこれを書くことになる。 XML/RSS でフィードされるのもこの部分だ。自分の主張をまず明確にし、本文を読んでもらうためのキャッチとしなければならない。この点欧米人はこれがうまく、よく できた英語の新聞記事では最初の5行を読めばだいたい全部分かるように書いている。新聞記者ばかりでなく学校教育に於いてもそういうのが重視される。 blog とはまさにそういう言語文化に則ったものである。

日本の「随筆」と欧米の「エッセイ」の違いは「アフォ リズム(警句)」の有無であると云われる。この一ヶ月いろんなサイトを拝見しての印象であるが、従来型の日記サイトは基本的に日本の伝統的「随筆」に近い ものが多いのに対し、blog tool で書かれるページと文章は、その形式上の特徴から、自ずとアフォリズムに富んだものとなるようである。これはネットで使用される日本語におよびそれを書く 日本人の思考方法にとって革命的な(大げさかな)変化となるのかも知れない。形式が内容を規定するのである。


2003年6月19日木曜日

〔再録〕荷風と散歩 June 19, 2003


荷風と散歩



最近中高年の間で流行の東京散 歩というものの元祖は永井荷風だと言われている。明治の終わりにフランスから帰国した荷風がパリ市民の風俗を日本で実践したというのだ。でも荷風の散歩哲 学はディレッタンティズム以上のものがあったように思う。荷風にとって散歩とはなにか、その4つの側面。その過程での発見。荷風が子供時代遊んだ代官 町の土手には当時の榎が残っていた!



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最近東京の街歩きをすると高齢者夫婦が二人連れで歩い て居られるのに頻繁に出くわす。散人もうろつき歩く高齢者だから人のことは言えないのであるが、ガイドブックを手に歩いて居られる人や、カメラでいろんな 写真を撮って居られる人や、はたまた食べ歩きを目的とされて居られるような方とか、とにかく多い。本屋に行けばこの手のガイドブックが山と積んで売られて いる。いまや「東京街歩き」は完全に一つの風俗・趣味として定着した感がある。とてもいいことだと思うが、物の本によると江戸時代にはこんなことはなかっ たらしい。基本的にみんな忙しかったこともあるが、ふらふらと目的もなく歩き回るのは奇異の目で見られたようだ。この散歩というものを日本で最初に意識的 に実行しはじめたのは、衆目の一致するところ、明治40年代の永井荷風である。

永井荷風はアメリカ、フランスでの留学を終えて帰国し たのが明治41年。慶應義塾大学で創刊した雑誌「三田文学」に明治43年から連載した『日和下駄』が日本の散歩文学の元祖とされる。荷風はこの中で都市生 活者としての散歩の美学を確立したと言ってよい。この中で荷風がフランスの散歩の習慣とディレッタンティズムを引用しているところから、荷風がフランスの 習慣を日本に持ち込んだとする見方がある。たしかに荷風は「私の趣味のうちには自ずからまた近世ヂレッタンチズムの影響も混ざっていよう」とフランスでの 散歩の習慣につき長々と紹介している。荷風はフランス人のように「社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた」ことに間違いはない。 「深川の唄」には市電の中での実に細かい人間観察がある。荷風は半ばサディスティックにこの観察を楽しんでいた。でもこればかりではない。

荷風にとってそれ以上に重要だったのは「江戸への回 帰」であった。古くからのものを惜しげもなく破壊して薄っぺらな近代を建築していた明治の時代に、荷風は明治政府の悪口を散々言いながら、東京市中の散歩 でわずかながらも残っている古い江戸を発見して驚喜したのであった。これは今どき流行の「路上観察」とは別種のもので、荷風は東京を散歩することで時間空 間を散歩した(タイムトリップを試みた)ともいえる。「(散歩を楽しむためには)是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質で なければならぬ」と荷風は断じる。荷風にとっては昔を思い起こさせるものは、普通の人が見れば全くつまらないものであっても、驚喜するほどうれしいもので あったのだ。荷風の学者としての蓄積と博識が、単なる散歩を至福の娯楽にまでに高めしめたのであった。

しかしそればかりでもない。荷風は散歩をしながら考え る人でもあった。ベートーベンが田園を週日歩き回りながら「田園交響曲」の構想を練ったように、荷風も歩きながら作品の構想を練った。また材料の収集を 行った。天下の名作『濹東綺譚』はこうして書かれたし、随筆「放水路」では荒川沿いを歩きながら人生の荒漠をしみじみと哲学する荷風の姿が見える。荷風の 思索は散歩をしながら過去に将来にと無限に広がっていったのである。

加えて最後に、荷風にとっての散歩は「探検」であった ことにも触れなくてはならない。荷風は子供時代から見も知らない道を探検するのが好きだった。それは『日和下駄』にも書かれているが、その路地を曲がれば 何があるのか知りたい、この道はどこに通じているのかを知りたいという、とても子供らしい好奇心である。荷風はこの子供らしい好奇心(冒険心)を最後まで 失わなかった。晩年に書いた「葛飾土産」は「この川はどこに通じるのだろうか」という荷風の好奇心がテーマだ。とても詩情にあふれるいい作品だと思う。荷 風は最後まで子供の心を失わなかった人でもある。

このようにいろいろの要素を併せ持つ荷風の散歩はまさ に「散歩の総合芸術」と言えるかも知れない。

最近『日和下駄』で荷風が子供時代に学校からの帰り道 に遊んだという記述の中に出てくる代官町の榎が現在でもまだ残っているのか急に知りたくなり、代官町に行ってみた。当時の近衛師団は現在国立近代美術館の 工芸館となっている。その向かいあたりに、まさに荷風の記述通りの場所に榎が残っていた。平成の現代にもまだ荷風を偲ぶ風景が残っていたことに、私は驚喜 した。


代官町の榎(2003.3.16撮影)

Posted: Thu - June 19, 2003 at 05:41 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (3) 

2003年5月16日金曜日

「デフレにもいいところはある」と信じよう

2003.5.16

最近、意気消沈することが次々と起こる。イラクではアメリカが圧倒的な力を見せつけて国際政治とは結局は力のルールであるという実も蓋もないことを白日の下にさらしてしまうし、北朝鮮が怖いことを言い出しても日本はなんにも出来ないし、景気低迷が続き経済的にも日本の存在感は希薄化する一方だし、それなのにマスコミは白装束集団がどうしたこうしたと言うことにしか関心がないみたいだし、気分が落ち込む。

国際政治で日本の身の程を嫌と言うぐらいに思い知らされた以上、せめて日本は「町人国家」でもいいから経済的な存在感を取り戻すべきと考えるのは自然な成り行き。でも景気は一向によくなる気配を見せない。デフレスパイラルが進行している。このデフレは高すぎる日本の物価水準を国際的に平準化する過程であり構造的なものであると言われる。確かに日本の給与水準はアメリカに較べても高すぎる。この程度の調整であるならそんなに時間はかからない。でもお隣の中国と賃金水準を「平準化」するとなるとこれはたいへん。だとすると10年ぐらいではデフレは止まらないことになる。

もちろん国際物価の平準化だけを考えるなら、デフレばかりがその調整の方法ではない。物価とは為替を通して国際的に比較するものであるから、為替を円安にすれば実際に国内物価を下げなくとも(デフレにしなくとも)国際的な物価の平準化は可能である。ではそうしてそれをしないのか。技術的に出来ないとかの議論の前に政治的な価値観の問題からこうした手段は採らないとする隠された政治的意図が存在するのだ。構造調整という奴だ。小泉さんと日銀はデフレによってしか構造改革が実現しないと信じているようなのである。デフレで非効率的な企業は淘汰されるし、賃金水準も押さえられるし、歳入が減るので歳出を絞らざるを得ないので国家の関与は自ずと小さくなるし、地価や株が下がるので戦後のバブルで儲けた勝ち逃げ組からの資産収奪は進むし、経済全体の生産性が上がり、やがて日本は国際競争力を取り戻すというシナリオだ。

でもこの日本の「構造」というものは戦前から連綿と続くものだ。弊害も目立っているので直した方がいいとは思うが、そんな簡単ではない。まさしく一朝一夕に出来るものではなく長期的課題だ。デフレを通じて構造調整をするとなると、結果は素晴らしいものとなるにせよ、たいへんな時間がかかる。ケインズが「長期的長期的というのは結構だが、長期的には我々はみんな死んでしまう」と喝破したことを思い出す。誰が長期的に生き残り「素晴らしい結果」を享受できるのか、事態は「長生き勝負」の様相すら呈している。老い先短い老人はとてもこの勝負に勝てそうにない。

さらに勘ぐれば、この「長期戦」にも隠された政治的意図があるように思える。デフレが長引いた方がいいと考える合理的な根拠もあるのだ。世代問題である。頭のいい人が繰り返していっているように戦後日本の混乱した教育を受けた世代は団塊の世代として知られるが、これが問題の世代と言われる。いろいろの問題含みの性癖が指摘されている。でもあと数年不況が続くとこの世代は早期退職とか定年退職で現役から引退することになる。景気がよくなってしまうと天下りなんかやりそうだからかえって不況の方がいいのである。そうなれば社会の生産性は格段に上昇する、とエライ人は考えているらしい。

経済活動とはいつでもコインの両面である。いいことがある反面悪いこともあるし、逆に悪いことが続く中でもいいことも起きているのである。酒が半分入ったコップを見て「もう半分しかない」と考える人は悲観論者で、「まだ半分もある」と考える人は楽観論者である。わいわい言っても騒いでも事態は変わりそうにない以上、同じことなら楽観論者として気楽に考えたいものだ。デフレにもいいことはあるのである。

2003年5月14日水曜日

Le Monde : 野獣の友ブリジット・バルドーは人間の敵

2003.5.14

ブリジット・バルドーはまだまだ元気で過激な言動を止めていない模様。人間歳をとると丸くなるのが普通ですが、彼女の場合は逆ですね。人間より動物の方がお好きなご様子です。

 


Brigitte Bardot, amie des bêtes, ennemie des hommes (2003.5.13)

野獣の友ブリジット・バルドーは人間の敵

68歳になったブリジット・バルドーは、もはやどんなに批判されても怖いものなしであり、最新の『沈黙の叫び』という本の中ではまたしても人にショックを与えるようなことを書いている。彼女の『回想録』第二巻の発刊から4年、この人間嫌いのスターは「極端な告白」で「私の書くことが大嫌いな人たちを頭に来させる」ことを事前に楽しんでいるかのようだ。「人類」一般に対する憎悪や特にイスラム教徒の侵略に対する憎悪などと共に、「職業的」失業者や「何もしないでぶらぶらしている」若者達や「この20年間の荒廃の責任者である」左翼に対する悪口がさんざん書かれている。

みんなが彼女を黙らせる前に言っておこうということか、この緊急の「最後の叫び」で、「多分表現の自由」というものであろうが、バルドー女史は政治家と評論家の立場から、同性愛者やホームレスや「教会を冒涜し教会を豚小屋に変えてしまった連中」を口汚く非難する。

レストランでロブスターを救出

このフランスの「堕落者」リストの中には、死刑を復活させるべきだと彼女は主張しているのだが、「ひげを剃らずに脂ぎった髪で汚いシャツを着てよれよれのジーンズをはき泥だらけのバスケットシューズで学校にやってくる教員達」も入っている。彼女によれば学校は「堕落の中心」であり麻薬が蔓延しマリワナを吸うテロリスト達や避妊器具を大量に消費する連中の温床であるとのこと。

裁判所、政治、テレビ、バラエティー番組、財政、労働組合、映画・・・、例外はない。何でもかんでもぼろくそだ。「芸術は名実共に糞みたいになってしまった」し、現代文学は「国民的キンタマ抜かれ」だという。悪口を言われないのは、「上品なミシェル・ドラッカー」や「豪華なソフィー・マルソー」やジャン・マリー・ルペンぐらいなもので、ルペンは「風や潮にも流されず自分の信念に忠実」であるとのこと。

バルドー神話が生まれてから50年、このスキャンダルまみれのスターはこの「新世紀の最大の淫売を崇めて小児愛を名誉なものとしたような」風紀の自由化の風潮を告発するべきと素直に信じている。一方で「男性にはトップモデルの職業を選びエステで身繕いするような連中しか残っていない」とも言う。

このような罵詈雑言が延々と続くが10ほどの牧歌的な章もある。そこでは彼女が毛がいっぱいの動物や鳥や甲殻類に対して限りない愛情を注いでいることが述べられている。バルドー女史がレストランでロブスターを救出した話や、「愛ときれいな水を求めて歌を歌うカエル」の話や、飼っている大好きなマルセルとロゼットという豚は「きれいな水でシャワーを浴びることが大好きで愛情をかけてやらないといけない」とかいう話である。

Alexandre Garcia

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 13.05.03


2003年5月8日木曜日

〔再録〕コーランに書かれている天国の処女達とは単なる白い果物のことだったのか?

旧HP「ルモンド抄訳」より。原文へのリンクは切れていますが、拙訳をお読みください。


2003.5.8

この記事ケッサクです。コーランは単なる聖書の解説本であったとするドイツ人学者の研究が波乱を呼んでいます。こういう研究は今までタブー視されてきたのでしょうね。こういう神聖化されてしまった文章は日本にも存在します。はい。何事においても客観的な姿勢が大切です。

Et si les vierges célestes du Coran n'étaient que fruits blancs ? (2003.5.6)

コーランに書かれている天国の処女達とは単なる白い果物のことだったのか?

博識な人(碩学)とは普通攻撃的な性格を有さないと見られている。とても普通の人には理解できない生死に関する難しい問題を一生懸命考えている人というイメージだ。だから彼等碩学の仕事は世界の現実には一切インパクトを与えることはないと考えられている。それは間違いである。実際に図書館の蔵書の下から引っ張り出した彼等碩学の発見がいま世界に大騒動を引き起こしかねない勢いなのだ。一番最近の例をとるとドイツのクリストフ・ルクサンブルグがコーランの言語について行った研究がそうだ。この人はアラビア語の文語及び方言の専門家で哲学者であるがシリア語と6世紀と7世紀にかけて広く使われていた「アラブ・シリア語」の権威でもある。彼はコーランがどの言葉で最初に書かれたのかを問題意識として研究した。

この問題意識は今更でもないという感じだ。もちろんアラビア語だ。しかしどのアラビア語であるかと言うことが問題なのだ。難しいことは、知られているコーランの一番古いテキストは子音だけで書かれていることから来る。ずっと後世になってから、具体的に何時どうしてと言うことは分かっていないが、母音が表記できる表記システムが完成され、発音の区別が正確にアラビア語で表記できるようになったのである。この問題はよく知られていることだが、この碩学はもう一歩踏み込んで、コーランの従来意味がよくわからなかったくだりを古代のアラブ・シリア語の語彙でもって解読しようとしたのである。結果は驚くべきことであった。例えばコーランのマリアの処女懐妊(19章、24節)のくだりでは、生まれたばかりのイエス・キリストはマリアを慰めるのだが、通常のコーラン正本では「悲しむとこなかれ。神は汝の足を小川の流れに入れたまう」と書かれており、意味不明であるが、アラブ・シリア語を使って判読すると「悲しむことなかれ。神は汝の出産を正当なものと認め給う」という意味になるのである。

もっと驚くべきことは、コーランで有名な天国の楽園の処女達とは単に葡萄の実のことであったとする解釈だ。(コーランに書かれている天国で待ち受けているという)「目が大きい処女達」とは「クリスタルのような白い果物」と読むべきとのことだ。自殺攻撃をするイスラムの勇士達はテロ実行にあたり(天国の処女達のために)局部を念入りに聖なる白布で保護して事に当たるというのに、これが単に葡萄だったとなるとたいへんなことになってしまう。もしルクセンブルグが正しいとなると、コーランとはシリア語で言う教則本であり、聖書に置き換わるものではなく、聖書を解説するマニュアルとして書かれた文書の一種であると言うことになるのだ。

ソルボンヌ大学教授レミ・ブラーグが雑誌「クリティーク」4月号で強調するように、この問題は科学的に広く議論されるべき時に來ている。もしこの仮説が正しいとなると、どんな大きな結果を引き起こすか想像できるだろう。碩学とは攻撃性を持たない無害な人たちではないことは確かである。

Roger-Pol Droit

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.05.03

2003年4月17日木曜日

〔再録〕ネオコン:戦略家であり同時に哲学者

これはとてもよく書けているルモンド解説記事。お勉強用:


2003.4.17

ブッシュ政権に重大な影響力を持つ新保守主義者(ネオコン)についての詳細な分析と解説です。彼等が恐ろしいほどの手強い存在である事がわかります。文化相対主義とポリティカリー・コレクトを否定する事から出発し、己の民主主義を守るためには外国のおぞましい政治体制は破壊しなければならないという確信に繋がっていくのです。梅原猛流の縄文的文化相対主義が風靡する日本の文化も、このままではポアされてしまうかも知れない。

Le stratège et le philosophe  (2003.4.16)

戦略家であり同時に哲学者

アメリカの大統領の政策選定にキリスト教原理主義者達と並び重要な役割を演じているネオ・コンサーヴァティヴズ(ネオコン)とはどういう人たちなのか? そして彼等の教祖は、アルバート・ウォールステッターなのか、レオ・ストラウスなのか?

真面目な賞賛を込めた口調でブッシュ大統領はこういった:「君達はまさに我が国の最高の頭脳である。だから私の政府は君たちのうち約20人を採用する事にする」と。これは2月26日にワシントンのアメリカン・エンタープライズ・インスティチュート(AEI)で大統領がした演説である(ルモンド3月20日)。ブッシュはこの言葉でアメリカの新保守主義勢力の牙城であるシンクタンクに敬意を払った。かれは現政権を特徴付ける思想の学校に脱帽し、現在主流を形成しているこの知的潮流にブッシュは大いに依存していると表明したのである。自分の周辺をネオコンで固めており彼の政策選定にはネオコンが重要な役割を果たしている事をブッシュは認めたのである。

遡って1960年代の最初、ジョン・F・ケネディーはハーバード大学を中心に中道左翼の学者達を採用し、デイヴィッド・ハルバースタムが表現したような「ベスト・アンド・ブライテスト」から選りすぐった教授達で周辺を固めた。ジョージ・W・ブッシュ大統領の場合は(逆に)1960年代から主流であったこの社会民主主義者達の中道コンセンサス主義に激しく抵抗した人たち(ネオコン)と共に政治を行おうとしている。

ネオコンとはどういう人たちか? どういう歴史があるのか? 誰が思想的教祖となっているのか? ブッシュの周りのネオコンの知的源流はどこにあるのか?

ネココンと同じくブッシュの取り巻きにいるキリスト教原理主義者達と混同してはならない。ネオコン達は、現在共和党内部で力を付けつつあるアメリカ南部「バイブルベルト」のプロテスタント教条主義者達とは全く別物である。ネオコン達はほとんどが東部出身や一部にはカリフォルニア出身者達で占められる。彼等は一見「知的」な風貌で、多くはニューヨーカーで、また多くはユダヤ系であり、元はと言えば左翼出身者である。あるもの達は未だに民主党支持者だと自称している。彼等はバイブルじゃなくって文学雑誌や政治雑誌を読む人たちである。南部のテレビ説教師のようなダークブルーのダブルスーツではなくツイード・ジャケットを着る人たちである。社会道徳においてはほとんどの場合リベラルな考え方を表明する人たちである。彼等の目的は中絶を禁止したり学校で礼拝を強制する事にはない。彼等の野望は別のところにある。

ピエール・ハスナーの説明によれば、ブッシュ政権の特徴はこの二つの潮流(キリスト教原理主義とネオコン)を結合したところにあるという。ブッシュはネオコンとキリスト教原理主義のそれぞれを生かす形で共存させたのである。後者の代表はジョン・アシュクロフト司法長官などであり、前者の代表はいま主役の国防副長官ポール・ウォルフォヴィッツである。ジョージ・W・ブッシュは、選挙運動中は中道右派の立場で明確には政治的立場をはっきりさせずにいたが、ウォルフォヴィッツとアッシュクロフト、新保守主義者とキリスト教教条主義者という全く別の世界に住む人々を結合させる事でびっくりするようなイデオロギー的カクテルを作り出した。

アッシュクロフトは、南カロライナのボブ・ジョーンズ大学という学問的にはあまり知られていないがプロテスタントの原理主義の牙城の大学で教鞭を執っていた。反ユダヤ主義の色彩を帯びた発言で知られる学校である。一方、ウォルフォヴィッツはユダヤ人で、教職者の家庭で育ち、東部の名門大学の優等生であり、1960年代には名門大学二つで教授の職にあった。アラン・ブルームは哲学者であり、数学の教授であり、軍事戦略の専門家である。この二つのキーワードは重要である。ネオコン達は、戦略と哲学という二つの守護神の庇護の元にあるのだ。

ネオコン(新保守主義)と名前が付いているが、「保守」とは変な名付け方であり、ネオコンは既存の秩序を保守しようという人々とも全く違った人たちである。彼等はヨーロッパで言う保守主義の特徴をほとんどすべて否定する。『歴史の終焉』の著者で保守主義者の一人であるフランシス・フクヤマは「新保守主義者(ネオコン)はヒエラルキーや伝統に基づくすべての秩序を守ろうとしない、人間の自然的な傾向については悲観主義的立場を取る人たちである」と断定した(ウォールストリートジャーナル、2000.12.24)。

理想主義者で楽観主義者であり、アメリカの民主主義モデルが普遍的な価値を持つと信じており、軟弱なコンセンサスに基づく現状(ステイタス・クワオ)に終止符を打ちたいと願っている人たちだ。かれらは物事を変化させる政治政策を信じている。国内政策では歴代民主党政権(ケネディー、ジョンソン)とニクソン共和党政権が作り上げた「福祉国家」は社会問題の解決にほとんど役に立たなかったとする批判の理論付けをした。外交政策では1970年代のデタントは西側よりもソ連を利しただけであったと否定した。60年代を総括批判し、ヘンリー・キッシンジャーの現実主義外交に反対する。彼等はアンティ・エスタブリッシュメントなのである。アービング・クリストールと雑誌「コメンタリー」の創設者ノーマン・ポドホレツは、二人ともニューヨーク生まれのネオコンの名付け親だが、左翼出身である。彼等はソヴィエット共産主義を左の立場から批判するぐらいの真性左翼である。

『マルクスでもなくキリストでもなく』(1970)でジャン=フランソワ・レヴェルは60年代のアメリカは社会革命の大騒ぎの中に在ったと書いた。かれは今日のネオコンは1960年代の騒ぎの揺り戻しと見ている。まず国内政策において、ネオコンはレオ・ストラウスに倣って60年代のモラルであった文化相対主義を批判する。ネオコンは文化相対主義が80年代の「ポリティカリー・コレクト」に行き着いたと見ているのだ。

戦列に加わっているもう一人の席順の高いインテリはシカゴ大学のアラン・ブルームだ。彼の事については友人のサウル・ベローが『ラヴェルスタイン』という小説を書いている。1987年『アメリカン・マインドの終焉』でブルームは大学人達を誰かと無く一刀両断に切って捨てた。「何でもかんでも文化となってしまった。麻薬も文化だし、ロックも文化だ。町のギャングですら文化だ。それに続いて一切の差別を否定するという事も文化になってしまった。文化を否定する事が文化になってしまったのだ」と彼は書いた。

ブルームは、彼の先生であるストラウスと同様、古典の偉大な解説者である。「1960年代の風潮が西欧文化それ自体への軽蔑につながってきた」と彼は考えるとジャン=フランソワ・レヴェルは説明する。「ポリティカリー・コレクトの名の下にすべての文化は同等に価値を持つという事になったが、学生や教授達は自由を抑圧する非西欧文化は完全に善いものとして受け入れるくせに西欧文化に対しては非常に厳しい態度を取りその優位性を全く認めようとはしない」とブルームは疑問を投げかける。

「ポリティカリー・コレクト」が君臨するように見える中で、ネオコンは着実に点数を上げてきた。ブルームの本は巨大な成功を収めた。外交政策において、真性ネオコン・スクールが形成されるようになった。ネトワークが張り巡らされた。1970年代、ワシントン州選出のヘンリー・ジャクソン上院議員(民主党)は核軍縮協定を批判した(1983年没)。それから戦略論に夢中になる若い世代が形成された。リチャード・パールとウィリアム・クリストフはアラン・ブルームの授業を受けた人たちである。

政府の内外でリチャード・パールはポール・ウォフォヴィッツと顔を合わせるようになり、二人は同じくデタントを攻撃するケネス・アデルマンや国務次官補のチャールズ・フェアバンクスの下で働くようになる。戦略論ではアルバート・ウォールステッターが師匠となった。ウォールステッターはランド研究所の研究員であり国防総省の顧問でもあったが、同時に美食家としても知られていた(1997年没)。かれはアメリカの核政策ドクトリンの生みの親である。

正確に言えば彼はいわゆる伝統的なドクトリンである相互確証破壊(MAD)の理論に対する疑問を最初に投げかけた人だ。このMAD理論は対立する二つのブロックがお互いに相手を破壊するだけの核を持てばそれぞれの指導者は自分から核を使う事が出来ないと言うものだが、ウォルヒステッターとその生徒達は、MADは一般国民を殺戮することを考えているため非道徳的であると同時に、核兵器を相互に無力化する事につながるので非効率的であると考える。合理的な政治家は、少なくともアメリカの大統領は「相互的な自殺」を決定する事はないというMAD理論に対して、ウォヒステッターは反対に「漸進的抑止」というものを提案する。これは限定的な戦争は認め、最終的には戦術的な核兵器の使用も認め、インテリジェンス兵器と精密兵器を使い敵の軍事力を正確に攻撃するというものだ。

彼はモスクワとの核兵器制限協定政策を批判した。彼は、これはアメリカの技術的創造性を阻害するものであり、ソ連と人工的な軍事均衡を維持するものだとする。

ロナルド・レーガンは彼等の言葉に耳を貸すようになり「スター・ウォー」と名付けられた戦略防衛システム(SDI)を推進する事となる。彼の弟子達は、ABM条約はアメリカの防衛兵器開発を妨げるだけであるとして、その一方的廃棄を熱心に主張した。彼等はジョージ・W・ブッシュを信じ込ませるのに成功した。

パールとウォルフォヴィッツはその過程でエリオット・アブラムズとも知り合うようになる。アブラムズは今日ホワイトハウス国家安全委員会の中東担当責任者である。また国防副長官のダグラス・フェイスとも知り合う。彼等全員、イスラエル政府のやる事は、その政権の如何にかかわらず、すべて良しとして無条件に支持する人たちである。この完璧な支持が、彼等がアリエル・シャロンの後ろに眉ひとつ動かさずにくっついて行く理由を説明している。ロナルド・レーガンの二つの政権下において(1981,1985年)彼等のうちの多くが政府においてはじめて責任ある地位についた。

ワシントンにおいてネオコン達は着々と彼等の住処を築いていった。創造性は彼等の側にあった。やがて何年かの後にはネオコン達は、中道派や中道左派を隅っこに追いやり、自分たちが中心的勢力をしめるようになり、彼等の考え方が政治を決定するようになる。雑誌の「ナショナル・レビュー」「コメンタリー」、ストラウス門徒のアンドリュー・スリヴァンが率いる「ザ・ニュー・リパブリカン」、マードック・グループに属する「ウィークリー・スタンダード」などが影響力を持つようになる。一方でフォックス・テレビ・ニュースはネオコンの考え方を分かり易い形で大衆に広める役割を果たしている。ウォールストリート・ジャーナル紙の社説はロバート・バートレイが牛耳っているが、恥も外聞もなくネオコンのミリタリズムを吹聴するようになった。シンクタンクではハドソン研究所、ヘリテージ財団、アメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)などもそうだ。ネオコン達の家族も同じだ。アービング・クリストールの息子ウィリアム・クリストールはとても都会的な人間で雑誌「ウィークリー・スタンダード」の編集長をしているし、ノーマン・ポドホレッツの息子はレーガン政権の要職にあった。ポーランド系ユダヤ人で1939年にアメリカに移住してきたハーバード大学教授でソヴィエット共産主義の一番の批判者であるリチャード・パイプスの息子ダニエル・パイプスは、イスラム主義を西欧の脅威となる新たな全体主義であると弾劾している。

彼等は孤立主義者ではない。反対に彼等は一般的に幅広い教養の持ち主で外国についての深い知識を持っている。その国の言葉も往々にして完璧に話す。アメリカは自国の問題だけを考えればいいとする反動的ポピュリストのパトリック・ブキャナンとは全く違った人種である。

ネオコン達は国際主義者である。アメリカを世界に広めると言う確固たる行動主義者達である。ニクソンやジョージ・ブッシュ(父)などの古い共和党のやり方とは一線を画す。この古い共和党の考え方は「リアルポリティック」の効果を信頼し、アメリカが自国の国益を守るために同盟を結んでいる相手の国の体制はどういうものかには関心がないというものだった。キッシンジャーは彼等にとっては反面教師である。しかし彼等は民主党の伝統的な国際主義、すなわちウィルソン主義やジミー・カーターやビル・クリントンの国際主義も否定する。これらの国際主義は、彼等に言わせれば、天使のようにナイーブで、民主主義を広めるのに(役に立たない)国際機関に頼っているとされる。

戦略の次は彼等の哲学について述べる。アルバート・ウォヒステッターと1973年に死んだレオ・ストラウスの間には直接的な繋がりはない。少なくともネオコン主義が公式に出現するまではなかった。しかし、この二人の研究分野は根本的に違ったものであるにも拘わらず、ネオコン達のネットワークの中にはこの二人から影響を受けた連中が相当いるのである。

思想系統というか毛細管現象のようにと言うか、アラン・ブルーム、ポール・ウォルフォヴィッツ、ウィリアム・クリストール達の新保守主義の理論は、ストラウスの哲学が基本概念となっている。ストラウスは現実の政治問題や国際関係については一切書かなかった。ストラウスはギリシャ古典とキリスト教とユダヤ教とイスラム教の教典に関する膨大な博識で知られている人物である。彼は解説手法の優秀さで定評を得ている。「彼は古典哲学をドイツ的深遠さでもって哲学伝統の浅い国の人々に分かり易く解説する事に成功した」とジャン・クロード・カサノヴァは説明する。カサノヴァはレイモンド・アロンの弟子でアロンがアメリカに勉強に行くように薦めた人物である。アロンは戦前ストラウスとベルリンで出会いストラウスの熱心な信奉者となった。彼はピエール・ハスナーとかピエール・マネなどの自分の弟子達にもストラウスと会う事を薦めている。

レオ・ストラウスは1899年にヘッセ州のキルヒハンで生まれヒトラーが政権を取ると同時にドイツを離れた。パリに短期間滞在した後イギリスに移りそこからニューヨークに渡った。ニューヨークではニュースクール・オブ・ソーシャル・リサーチで教鞭を執り、その後シカゴで後のストラウス主義者のるつぼとなる社会思想委員会(コミッティー・オン・ソーシャル・ソート)を創設した。

ブッシュ政権にいるネオコン達のいくつかの思考原則をすべてレオ・ストラウスの教育のせいだと決めつけるのはやや単純で強引な解釈ではある。ネオコン達はストラウス派以外の伝統的学派にも根ざしているからだ。しかしそうは言ってもストラウスの思想が現在ワシントンでネオコン達が推し進める政策の下絵となっている事は事実である。このことからわかるが、ネオコン達は決して単純なタカ派ではない。ネオコンの土台には確固たる理論的基盤がある。異論を挟む余地はあるが、決して俗っぽいいい加減なものではない。ネオコンはレオ・ストラウスの二つの反省を合流させたものだ。

一つの反省はストラウスの個人的な体験に根ざしたものだ。ストラウスは若い頃、共産主義とナチズムに蹂躙されワイマール共和国が衰退する中で生活した。彼は民主主義というものは、もしそれが優しいもののままでいて、根元的に拡張主義を採る独裁制と力に訴えてでも対決する事をしないならば、決して定着しないと結論付けた。「ワイマール共和国は脆弱であった。ワイマール共和国は偉大ではあったがいかなる時点に於いても力を持たなかった。ユダヤ人の外務大臣ワルサー・ラスノーが1922年に暗殺され怒りを露わにしたが、結局彼等の正義は無力であった事、或いは力を行使できない正義である事を見せただけだった」とストラウスはスピノザの宗教批判についての本の序文に書いた。

もう一つの反省は、「歴史」に精通することの結果生まれた反省である。昔の人たちと同様我々現代人にとって、もっとも関心があるのは政治体制である。政治体制が人間の性格を決める。どうして20世紀に、二つの、貴族的なストラウスは「暴君制」と呼ぶ事を好むが、二つの全体主義体制が発生したのか。この問題は現代の知識人の頭を悩ます問題であるが、ストラウスによれば、それは近代化が道徳的価値を否定する事を呼び起こしたからであるとする。道徳的価値という美徳こそが民主主義の基盤となるべきものであり、それを否定することは「合理性」であり「文明」そのものであるところのヨーロッパ的な価値の否定に他ならないとする。

彼によればこの(ヨーロッパ的な価値の)否定の源泉は啓蒙主義にあったとする。啓蒙主義はほとんど必然的に歴史主義と文化相対主義の産物であり、すなわち優位にある「善」の存在を認めず、具体的で直接的で些細な善にのみを云々し、本当の善を計る規範としての達成しがたいような(巨大な)善を追求しようとしなかったとするのだ。

政治哲学的に翻訳すれば、この(文化)相対主義というのは60年代から70年代に大流行したアメリカとソ連は収斂するという理論に究極的には結びつくのだ。この理論はアメリカの民主主義とソ連の共産主義は道徳的に同じようなものであると見なすところまで行き着いたのである。ストラウスにとって見れば善い体制と悪い体制がある以上、政治的判断には善悪の判断が避けて通れず、善い体制は悪い体制から身を守る権利があり、またそれが義務でもあるという。これがすなわちジョージ・ブッシュの言う「悪の枢軸」理論であると直結させるのはいささか単純であるが、根元は同じである事は明白である。

この体制についての中心的観念が、彼の政治哲学の原型となっており、米国憲法史に興味があるストラウス派の学者達がそれを更に発展させてきた。ストラウス自身、大英帝国とウインストン・チャーチルを意志で行動する人と尊敬しているが、アメリカの民主主義が政治システムとしては一番悪くないもの(一番ましなもの)と考えていた。利益が体制の基本的な美徳に取り替わる傾向があるものの、人間性の開花には歴史上これ以上のものは無かったというのだ。

しかし、とりわけワルター・バーンズ、ハーヴェイ・マンスフィールド、ハリー・ジャファなどの彼の弟子達はアメリカの憲法主義派という学派を発展させた。彼等はアメリカの制度の中に優位理論の具現化という思想の実践、すなわち、ハリー・ジャファの言う聖書の教えの具現化を見いだしたのである。結局のところ宗教というものは市民的なもので、社会と制度を結びつける役割を果たすとする。この宗教への回帰はストラウスにとってはそれほど奇異なものではなかったが、ジョージ・ブランディエの表現を借りれば「この無神論者であるユダヤ人(ストラウス)は足跡がごちゃ混ぜにされる事を楽しんでいた」とのことだ。ストラウスは宗教は大衆の幻想を維持するための単なる道具であり、宗教がなければ秩序は維持されないと考えていたのだ。かわりに哲学者が批判的精神を堅持し、少数の選ばれた人間にだけ、美徳に基づいた精神的貴族にだけわかる暗号めいた言葉で、事を解説をするのだと考えていた。

「古代」を賞賛し、近代化の罠と進歩の幻想に反対したストラウスであるが、啓蒙主義の落とし子であるリベラルな民主主義(その真髄はアメリカの民主主義と思われるが)は弁護した。矛盾しているのか? 疑いなくそうだ。でもこの矛盾は自由主義の考えかたを持つ他の思想家(モンテスキューやトックヴィル)にも見られる矛盾である。リベラリズムを批判する事は、リベラリズムが相対主義に陥る危険がある以上(なんでも述べても良いものであれば真理の追究は価値を失う)、リベラリズムの生き残りのために絶対しなければならない事であるからだ。ストラウスにとっては善の相対主義は、その結果として、暴君政治に対処できない(負けてしまう)事につながるのである。

この民主主義と自由主義を積極的行動で守るということは、ネオコンの好きなテーマであり、彼等の政治的パンフレットに頻繁に顔を出す。政治体制の性格こそが世界の平和を守るために作られたどのような機構組織や協約よりもずっと重要であると考える。一番大きな脅威は民主主義というアメリカの価値を共有しない国家からもたらされるとする。その国家の体制を変化させ民主主義の価値に向けて進歩させることがアメリカの安全保障と平和を強化する最良の方法であるとするのだ。

この政治体制を重要視する事、好戦的民主主義の賞賛、宗教的なまでのアメリカの価値に対する賞賛、暴君政治に対する断固たる反対姿勢、これらはブッシュ政権を満たしているネオコン達を特徴付けるテーマであるが、これはストラウスの教えと、彼の弟子である「ストラウス主義者」達が適宜修正編集したストラウスの解釈から引き出されたものであるといえる。でも教祖とネオコンの相違点が一つある。ネオコン達はメシア的な救済という楽観主義に取り付かれているという事だ。昨日は日本とドイツ、明日は中近東に、やがて全世界に自由をもたらすというのだ。あたかも政治的な意志主義が人間の本性までも変えうると考えているかのように。これもまた幻想である。出来るだけの多くの人に民主主義をもたらす事はいい事だが、それは哲学者の仕事ではないのである。

一つ疑問が残る。どうしてこの最初は教祖のカリスマに依存して口伝で伝えられた難解な文章解釈の学問である「ストラウス主義」が大統領府の影響を及ぼすまで定着したのかという事だ。パリのレイモンド・アロン研究センターの所長ピエール・マネの推測では、アメリカのエリート大学ではこのレオ・ストラウスの学徒達は異端として大学を追放され、それで彼等は官庁やシンクタンクや新聞社で働くようになったのではないかという。これらの機関では他の機関に比較してストラウス主義者が目立って多い。

別の補完的な説明もある。冷戦後の知的空白期間において、このストラウス主義者やその流れをくむネオコン達は、その空白を埋めるのに一番準備が出来ていたと云う事だ。ベルリンの壁の崩壊は、レーガンのソ連に対する強行的政策がソ連の崩壊をもたらしたということで、彼等の理屈が当たっていたと示す事になった。2001年9月11日のテロは民主主義が各種の暴君体制の前では脆弱であると言う彼らの理論を裏付ける事となった。イラクの戦争で彼等はこれで「悪い」体制を転覆させる事は可能でありまた望ましいとの結論を引き出したいのに違いない。このような(ネオコンの)試みに対して、国際法に訴えでる事は一定の道徳的な正当性を持ちうるものだ。(しかし現在の)国際法は、新しい仕組みが出来るまでは、人を確信させる力と強制力に欠けている。

Alain Frachon et Daniel Vernet

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 16.04.03

2003年4月10日木曜日

バグダッド制圧で勢いずく「勝ち馬乗り主義」の愚

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2003.4.10

バグダッド市内が制圧されて、アメリカは勝ち誇り、日本に於いてもそれに同調して「やった、やった」と喜ぶ人たちもいる。識者という連中は「戦争すればたいへんな事になる」と物知り顔で言っていたが大したことはなかったではないか、バグダッド市民は現に喜んでいるではないかとその人達は言う。でもちょっと待って欲しい。事実たいへんな惨事は既に発生しているのであり、また本当にたいへんなのはこれからなのだから。

まず「たいへんな事にはならなかった」というけれど、今まででもう十分なたいへんな事態である。自分の国を守ろうとしただけの兵隊を含めれば数千人のイラク人が殺されており、多くの一般市民も悲惨な目にあっている。たいへんな事である。これ以上何が必要なのであろうか。町々は破壊され、病院は民間人の死傷者で埋まっている。復興には10兆円のお金がかかるとも言われている。誰が元通りに直すのか。

それ以上の大きな問題は「これから」である。シラクがずっと言ってたように「戦争に勝つのは簡単だが、その後どうする?」ということだ。イラクは今やタガがはずれてしまった桶みたいなもんでどうなるかわからない。サダムの「鉄の規律の強制」でようやく一つにまとまっていた国だったのだ。「恐怖政治」は悪いけれど「混乱」はもっと悲惨。既にして町は略奪やり放題らしい。シーア派とかクルド人もどう動くか未知数だ。中東はもともとそういうところと言えば見も蓋もないが、こういう国で民衆を「解放」し、「民主的な国」を建設するというのは全く簡単な事ではない。それを承知の上で「イラク国民の解放」とか「民主主義化」とか言っていたのだったら戦争正当化の方便と言われても仕方がないだろう。本当に民主的な政権を選挙で選べばイラク国民の多数を占めるシーア派のアヤトーラ(お坊さん)が国家元首に選ばれる。イラクのイラン化でありそれは困るだろう。アメリカはとにかくサダムさえ追い出せば満足でバース党や共和国防衛隊などの国内治安統制を担う強権システムは出来るだけそのまま残す腹とも聞く。だったら頭が変わっただけの「サダムなきサダム体制」ということで民衆にとっては以前とあまり変わりはないだろう。それで「解放」されたことになるのか。戦費は1000億ドルに上るという。イラクの石油生産量は最大限に見積もっても500万バーレルだ(現状200万バーレル)。国民を食わさねばならないし、全部アメリカが独り占めにしたところで、10年たっても戦費の元もとれない。詮合理的な戦争ではないのである。ツケは国連を経由して日本に回ってくる。

テレビでは米軍のバグダッド制圧を「笑顔で迎える」民衆の姿が放映された。でもこれを持ってこの戦争が正当化できるというのはあまりにも短絡的である。第一今朝見たところではせいぜい数百人だ。かりにこれが一部の市民じゃなく全員がそうだったとしても、開戦以来食料の輸入が止められていたからお腹がすいているし、とにかく爆弾が落ちてこなくなったことで素直にうれしいんだと思う。でも食料の輸入の停止や爆撃はアメリカがやっていた。民衆は「戦争が終わったので」喜んでいるのだと思う。またサダムに99%の信任投票をしたぐらいの国民だから、新たな権力者に迎合しているだけかもしれない。本心はどうか全くわからない。

日本でも同じことが見られた。広島長崎に原爆落とされていても、また東京大空襲で一晩で10万人殺されていても、マッカーサーが來たら仕方なく従った。「解放された」という前提で生きるしかなかった。散人は別に「ウヨク」じゃないし、新しい前提で育った人間だけれど、そのへんの屈折した思いはまだ残っている。だからイラクの戦争を見るとどうしても日本の終戦直後にダブらせてしまうので嫌な気持ちにさせられる。アメリカのネオ・コンはあれだけ強く抵抗した日本でも占領してしまったら国民はアメリカの言う事を聞いた。だからイラクでも大丈夫だと言ったらしいけど、正直不愉快で腹が立つ。日本の場合、この「屈折した屈辱感」を戦後の復興と経済成長に邁進する事でポジティブなものに昇華させることが出来たけれど、イラクの場合はどうだろう。あまり経済成長を期待できる環境にないし、サダムの時代は農地解放や石油の国有化で結構いい暮らしが出来ていたから今更それほど生活程度の改善は期待できないし、侵略者に対するネガティブな恨みとしてずっと残るんじゃないだろうか。外のアラブ世界では嫌米感が渦巻いて盛り上がっている。アフガンではまたタリバンが現れて外国人を殺し始めている。欧州でもアメリカの評判は地に落ちた。これだけ短期間の間に烈しくアメリカのイメージを失墜させた大統領は珍しい。

日本で米英軍のイラク侵攻を「よくやった」と見る人は、無意識に同じことを米軍が北朝鮮でやってくれないかと期待しているのかもしれない。でも本当に「予防的措置」として米軍が北朝鮮に「乗り込むか」といえば(彼等が侵略戦争を始めれば別だが)あり得ないのではないか。イスラエルとは関係ないし、石油もない。また米国は中国との関係を壊したくない。第一韓国が承知しない。だからそんなことを期待しているなら裏切られることになるだろう。まあ少しの間北朝鮮はちょっとおとなしくはなるかもしれないが、彼等も馬鹿じゃないから(或いは本当に馬鹿だから)米軍は来るわけないと思ってる。だから彼等の瀬戸際外交は続くだろう。アメリカが正義の鉄槌を日本の思うとおりに振り下ろしてくれると期待するのは甘い。

日本の今やらねばならない事は、みっともない「勝ち馬乗り主義」で世界の笑ものとなるのでもなく軍事力を付ける事でもない。まず自国の経済を立て直し、確固たる経済大国の座を取り戻す事であろう。やはりお金がないと肩身は狭いし発言力もないのだ。お金がないと自立できないし行動の自由もない。アメリカを「殿ご乱心」と諫める事すら出来ない。

2003年4月1日火曜日

Le Monde : 二つの原理主義の衝突

2003.4.1
今回のイラク戦争の宗教的側面を分析した記事です。とても勉強になりました。ブッシュの行動を石油と彼のIQだけで説明するのはちょっと無理があり、説明つかない部分が残りますが、これを読めばその残りの部分が全部わかります。

Le choc de deux fondamentalismes(2003.4.1)


二つの原理主義の衝突

「十字軍」対「ジハード」? イラクの戦争が泥沼化する危険性に直面するなか、ひどく恐れられていた宗教戦争のシナリオが現実味をましてきている。一方の国では、ジョージ・ブッシュの演説では、若者に対する祈りの呼びかけや聖書が頻繁に引用され、キリスト教の典礼やドグマでこの戦争の正当化が図られている。戦争での死傷者や犠牲者が増えれば増えるほど、この種の宗教政治への偏りが多用される可能性がある。もう一方の国では、サダム・フセインは得意になって現代のサラセン戦士を気取り「神を汚す」異教徒の自国への侵略と神を持ち出してくる。サダムは決して尊敬されては居ないが、イスラムの連帯と「聖戦」を訴えるサダムの呼びかけは、アルジェリアからパキスタンまで、カイロからテヘランまで、広くイスラム社会に反響を及ぼしている。これは9月11日事件の時以来予測された事だ。こういうあくどい手法を用いられては、三つの一神教を生んだ東洋においては、神の名前や宗教的主題に身を震わすこと以外はないのである。

父親が国教徒であり、ジョージ・ブッシュJRは米国統一メソジスト教会に属している。副大統領のディック・チェイニーもそうだし、ホワイトハウスの人事担当責任者アンドリュー・カードもそうだ。コンドリーサ・ライスは彼女自身牧師の娘である。国防長官ドナルド・ラムズフェルドこそどの宗派にも属しては居ないものの、アメリカの運命はこれらの小さな凝り固まったプロテスタント教徒の手に握られていると書きたい誘惑に駆られる。事実、ジョージ・ブッシュは人を改宗させる事に情熱を注ぐ。祈祷は彼の日常生活に組み込まれている。彼は「新たに生まれた」とする分派に属し、洗礼により第二の命を与えられてと考える分派であるが、これが「バイブル・ベルト」と呼ばれる米国南部を中心に居る7000万人の信者の心をつかむのである。

宗教的「ポピュリズム」

洗礼「福音書教徒」もしくは「ペンテコステ」と呼ばれるキリスト教のネオ原理主義は、アメリカにおけるすべての「蘇生主義」に根ざしている。これはアメリカ南部やヨーロッパ、更にアジアやアフリカにまで広がっており、社会学者ハーベイ・コックスのような専門家によれば「21世紀の新興宗教」となりつつある。この「ポピュリズム」は世界の不安定さへの反動として、経済発展と共に都市部の匿名層にも増加しつつある。テレビなどによる布教をし、伝統的なキリスト教のやり方である牧師、司祭を通じての神との対話というやり方を取らない。聖書の言葉だけをまさに文字通り信じて、人間嫌悪や死刑を正当化し、堕胎を禁ずるのである。「改宗者」は小さな「エリート」サークルに入るものと信じられている。世界は「善」の力と「堕落」や「退廃」や「蒙昧」のの力に二分割されているとのマニ教的な世界観を持つ。この「堕落」と「蒙昧」こそがしばしばイスラム教と見なされる。9月11日以降、説教師のパット・ロバートソン、ジェリー・ファルウエルなどが、「犯罪者」マホメッドという汚い言葉でイスラム教を攻撃してきた。

メシア的使命感

この原理主義がイラクに対する戦争においてアメリカを動かしていると信ずる事はもちろんグロテスクな事である。この原理主義のネオ保守主義者で固めた政治への影響ということだけでアメリカの介入理由をすべては説明できない。しかしキリスト教社会において一つの亀裂が生じ始めている事は事実である。ローマ法王を始め、プロテスタント、オーソドックス、国教会などはほとんど全員一致で戦争反対を言っている。アメリカにおいてさえ、南部バプチスト協会連盟(1600万人の信者)をのぞけば、ブッシュが所属しているメソジスト教会を始めすべての教会が戦争に反対しているのだ。

しかし深層部のアメリカにおいては、9月11日の惨事に揺さぶられ、「神を信ずる」と書いたドル紙幣のように強力なシンボルを求め、アメリカこそが「道徳的に普遍的な国家」でありその役割を全面的に肯定する傾向が、自分自身をして、フランスのアメリカ・プロテスタンティズムの研究者セバスチャン・ファースが言ったように「神が宗派を越えてアメリカを一つに正当なものとしてまとめ上げている」という信念に結びついていないと言えようか。

アメリカの歴史は独特のものであり、メシア的な使命としてその国民はパイオニアである事を使命付けられており、自由こそが絶対的ドグマであり、アメリカは約束された新しい大地であり、アメリカ人は新しい選民である。ジョージ・ブッシュJRは決してこのようなメシア的役割に従った最初の大統領ではない。ロナルド・レーガンは「悪の帝国」と戦った大統領だったし、ジミー・カーターは、南部バプティスト教徒であり、サウジアラビアのワハビイズムを、イランのシーア派に比してよりプロテスタント的だとの理由で(イスラムのプロテスタントだとして)、寛大に扱った。多くの観察者は、1991年の第一次湾岸戦争において、アメリカの新教徒(福音書派)と、聖地の守護者でありイスラムのピューリタンでありすべての神と人間との間の司祭的仲介を拒絶するサウジアラビアとの間で、バイブルと鉄砲の「聖なる同盟」(スリマン・ゼギドールの言葉)が存在した事を見たのである。今日においても、歴史的な要因とか戦略的利害関係を越えて、アメリカともう一つの「神の民」であるところのイスラエルとの数多くの繋がりに驚かざるを得ない。イスラエルとエルサレムを死守するという使命感に燃えパレスティナ人を敵視するメシア的なキリスト教徒は、聖書におけるヘブライ人とフィリスタン人やカナネー人との対立を思い起こさせるものである。

このプロテスタント原理主義とイスラム原理主義の対立はキリスト教徒とイスラム教徒の歴史的な敵対関係を新たに呼び起こすものなのか。事実、この戦争は歴史の所産である。むしろモハメッド・アルクーンが『マンハッタンからバグダッドへ』で書いたように「神話の歴史」と言った方がいいかも知れない。この本に書いてある十字軍の話や侵略の戦争が、21世紀の今再び、聖なる制度を守るためにお互いを否定し合う「聖なる戦争」として燃え上がると想像するとやりきれない事である。

過去における、ナセル主義にならった初期のパレスティナ人の反乱や、アルジェリアの独立運動、アラブの抵抗などは大きなナショナリズムの時代の流れに沿ったものだ。しかし今日においては、世俗の理屈こそ付けられてはいるものの、本当のところは、宗教こそがフラストレーションが溜まったアラブ社会における行動を規範する中心的イデオロギーになっているのである。シオニズムとか社会主義とかマルクス主義とかの世俗のモデルは風化してしまい、宗教的正当性こそが現象として権力を握り(イランのイスラム革命やイスラエルのよる占領など)すべて正統主義への復帰につながっているのである。

過程

サダム・フセインも、自分の体制は世俗体制であるにも拘わらず、紛争においては常に宗教的な装いを着せた正当性を求めた。イランとの80年代の戦争では、すでに彼はイスラム教徒の世論をねじ曲げるように操作した。ガルフ戦争の時は、ふたたびサウジアラビアを攻撃して、イスラムの聖地の守護者であるにも拘わらずアメリカのプロテスタントのしもべとなりはてたと非難した。

9月11日事件の後はイスラミズムは敗北し究極的にばらばらになってしまった。エジプトやアルジェリア、イランに始まった「長い」戦いの過程は、結局世論の動員に基づく政治権力に道を譲りイスラム主義は壊滅した。しかし「短期的な」戦いは一層過激な暴力的なものとなり、攻撃され屈辱を受けたイスラム教徒とユダヤ人と「十字軍」との間の歴史的対立を際だたせたのであるが、これもやはり行き詰まった。1981年にサダトを暗殺したが、エジプトの政治体制を転覆するまでには到らなかったし、大多数のイスラム教徒は9月11日事件を引き起こそうというような人間を支持しない。ラディカルな暴力はジル・ケペルが『ジハード』で書いたように「イスラムの領域における致命的な罠」と見なされるようになったのである。

人は「イスラムと西欧」という括りでイラク戦争を見て詳しい分析を書略してしまうことが出来ると考えがちであるが、ヨーロッパと西欧は全員一致ではない。イスラム世界自身も未だ嘗てないほどに多様化しており、ナショナリスティックに相手を非難する国もあれば、民主主義の国もあり、また一方において、「ジハード」を構築する国もあるのである。しかしキリスト教世界を席巻しつつあるアメリカの新教原理主義とイスラム原理主義は、神学的教義に基づき声高に叫ばれるビジョンが大きく違い、神聖と堕落の原始的な教典解釈に基づく論争を基礎にした宗派であり、お互いに対立するものである。この戦争が宗教戦争の様相を呈するのはもちろん今すぐにという事ではないし、確定的な事でもないが、将来に予見しがたい結果を引き起こす消し炭(オキ)のようなものとして存在するのである。

Henri Tincq

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 01.04.03

2003年3月24日月曜日

Le Monde 「モニカ・ルインスキーを返せ」;フィリップ・ロスの平和運動ステッカー 2003.3.24



2003.3.24

アメリカで「モニカ・ルインスキーを返せ」というス テッカーが流行しているとの事。大賛成。クリントンは助平だったかも知れないがこんな馬鹿な事はしなかった。ポリティカル・コレクトはもうたくさんです。 善人ぶった「信念の人」が国を滅ぼすことは、与謝野晶子が「悲しからず哉道を説く君」と詠ったとおり。それにしてもこのステッカーを見てみたいな。


"Rendez-nous Monica Lewinsky ": l'autocollant pacifiste de Philip Roth (2003.3.22)

「モニカ・ルインスキーを返せ」;フィリップ・ロスの 平和運動ステッカー
ニューヨーク特派員報告

アメリカ市民がイラク戦争に抗議する方法は無数にあ る。デモに参加したり、インターネットで意見を発信したり、上着の襟にバッジを付けたり「戦争反対」のステッカーを車のフロントガラスに貼り付けたりす る。

知識人や、芸術家もそうである。73歳になった今もミ ルトン・グラサーはマンハッタンのグラフィックスタジオで非常に活発に芸術活動を続けているが、最近作家のフィリップ・ロスから「君の助けがいるんだよ」 と電話を貰った。

この『人間のしみ (The Human Stain)』の著者である有名な作家は、同じく有名な「I love Ney York」のスローガン(「love 」をハートマークで置き換えたもの)をデザインしたグラサーに「モニカ・ルインスキーを返せ (Bring back Monica Lewinsky)」という言葉を入れたステッカーのデザインを頼んできたのだ。出来上がったものは、素晴らしく、ちょっとひねった辛辣なもので、青地に 白抜きの文字で書かれたものだ。これをバンパースティッカーにしたものは、この二人の友人達のインフォーマルネットのおかげで大いに流行っているとの事で ある。

誰もがこの言葉を読んで1998年の夏の事を思い出 す。ホワイトハウスの研修生をめぐるスキャンダルでアメリカの大統領の罷免手続きにまで発展した件である。この時の大統領がしでかした間違いの深刻さは、 またクリントンが嘘を付いた事の重大さは、現在ジョージ・ブッシュがこの国を誰もが出口を見えない紛争に引きずり込んだ事の深刻さとは比較にならないもの だ。フィリップ・ロスによれば、かれが『人間のしみ』に描いたようにこのモニカ事件はアメリカ社会の現状を象徴するものである。彼の言葉を借りれば「馬鹿 げたポリティカル・コレクトネスという言葉のもとにすべてが押しつぶされ、矮小化され、低俗化してしまうのだ」。ロスによればこれは「礼儀作法による専 制」であり、今日アメリカはこれによって身動きの取れないような状況に追い込まれている。個人レベルでまた集団レベルで昔風の抗議やお叱りがまた再び表面 化してきたという。一方ミルトン・グラサーは、自分の信条を文章に書いた事は今までないが、最近の「ネイション」誌で反戦運動の支持を表明した。

インターネットジャーナルのサイト (www.thenation.com)では数々のバッジが販売されている。「秘密は独裁につながる」とか「意見の対立は民主主義を守る」とか「監視は自 由を奪う」とか、或いは単に「オイル戦争」とかである。ある1865年以来の反権威雑誌は読者に「袖に血が流れるハートを付けよう」と呼びかけた。ミルト ン・グラサーは9月11日事件の後「I love Ney York」の言葉の後に「More than ever」を付け加えたが、モニカのステッカーでフィリップ・ロスは、彼の辛辣なやり方で、「今まで以上に(More than ever)」愛国心を発揮しようとしている。

Michèle Champenois

• ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 22.03.03


珊瑚集:暖かき火のほとり ポオル・ヴヱルレヱン


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

ポール・ヴェルレーヌ
原文       荷風訳
(Le foyer....) PAUL VERLAINE

Le foyer, la lueur étroite de la lampe ;

La rêverie avec le doigt contre la tempe

Et les yeux se perdant parmi le yeux aimés ;

L'heure du thé fumant et des livres fermés ;

La douceur de sentir la fin de la soiré :

La fatigue charmante et l'attente adorée

De l'ombre nuptiale et de la douce nuit,

Oh ! tout cela, mon rêve attendri le poursuit

Sans relâche, à travers toutes remises vaines,

Impatient de mois, furieux des semaines !

(La Bonne Chanson) 

暖かき火のほとり ポオル・ヴヱルレヱン


暖かき火のほとり、灯火のせまきかげ、

額に指する夢見心地、

愛する人と瞳子を合すその眼とその眼、

煮ゆる茶の時、閉せる書物、

日の暮れ感ずるやさしき思ひ、

くらきかげ、静けき夜をまつ時の

云ふに云はれぬ心のつかれ、

ああわが夢心地、幾月のまちこがれ、

幾週日の遣瀬無さ、

猶ひたすらに其等を追ふ。

lueur 〈女〉 微光; 閃光. / réverie〈女〉 夢想./ nuptiale 婚礼の./attendri  感動した, 優しい./ relâche《文》中断, 休息.

細かい事ですが、荷風はお茶を「煮る」と書くんですね。『断腸亭日乗』でも頻繁にこの「煮る」が登場します。なんか出涸らしのお茶を淹れるみたいでピンと 来ないんですが、正式の漢文じゃこう言うんでしょうか。それとも荷風は質実剛健だからお茶をやかんで煮立てて淹れていたのかしら。知りたいところです。

余丁町散人 (2003.3.24)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年3月23日日曜日

珊瑚集:道行 ポオル・ヴヱルレヱン


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

ポール・ヴェルレーヌ
原文       荷風訳
Colloque sentimental PAUL VERLAINE

Dans le vieux parc solitaire et glacé,
Deux formes ont tout à l'heure passé.

Leurs yeux sont morts et leur lévres sont molles,
Et l'on entend à peine leurs paroles.

Dans le vieux parc solitaire et glacé,
Deux spectres ont évoqué le passé.

- Te souvient-il de notre extase ancienne ?
- Pourquoi voulez-vous donc qu'il m'en souvienne ?

- Ton cœur bat-il toujours à mon seul nom ?
Toujours vois-tu mon âme en rêve ? - Non.

- Ah ! les beaux jours de bonheur indicible
Où nous joignions nos bouches ! - C'est possible.

- Qu'il était bleu, le ciel, et grand, l'espoir !
- L'espoir a fui, vaincu, ver le ciel noir.


Tels ils marchaient dans les avoines folles,
Et la nuit seule entendit lur paroles.
(Fêtes galantes)

道行 ポオル・ヴヱルレヱン


寒いさむしい古庭に
今し通った二つのかたち。

眼おとろへ唇ゆるみ
ささやく話もとぎれとぎれ。

寒いさむしい古庭に
昔をしのぶ二人のかげ。

ーお前は楽しい昔の事を覚えてゐるか。
ーなぜ覚えてゐろと仰有るのです。

ーお前の胸は私の名をよぶ時いつも震へて、
お前の心はいつも私を夢に見るか。ーいいえ。

ーああ私等二人唇と唇とを合はした昔
危い幸福の美しい其の日。ーそうでしたねえ。

ー昔の空は青かった。昔の望みは大きかった。
ーけれども其の望みは敗れて暗い空にと消えました。

烏麦繁った間の立ち話、
夜より外に聞くものはなし。




colloque  〈男〉  対話 / mou1(mol) (女性形 molle)  弱い.生気のない, 活気のない / souvenir 〈自〉  《助動詞は ètre》 《非人称構文で》 《文》 Il me [te, lui...] souvient de [que...] 私〔君, 彼(女)〕の心に浮ぶ, を思い出す〔覚えている〕.―Te souvient-il de notre extase ancienne? (Verlaine) 「過ぎし日のわれらの陶酔いまだ覚えたまうや」./indicible  〈形〉《文》 言語に絶する, 曰く言いがたい. avoine 〈女〉  オート麦 /

なんか身につまされるお話しですねえ、殿方御同胞。男の方がロマンティックなんです。その点女性は常に現実的。でもこの夫婦、夫が妻を「tu」で呼んでい るのに妻の方は夫に対して「vous」を使ってます。これはどういうことなんだろう。昔は男尊女卑がそれほど非道かったのだろうか。夫が親密さを表現しよ うとしているのに妻の方がわざと「vous」を使って夫と距離を置こうとしているのかも知れない。

余丁町散人 (2003.3.23)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年3月22日土曜日

近況報告(春のお便り)


近況報告(春のお便り)
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余丁町散人

春分の日も過ぎてだんだん日が長くなっているのですが、今日はまた冬に戻ったような寒空です。地球温暖化とか炎暑とか暖冬になれてしまったので、何だか昔懐かしい感じ。昔の日本家屋での生活は冬本当に寒かった。戦後強くなったのは女と靴下といわれた頃もありましたが、それ以上に変わったのは一般住宅内の気温。住宅の冷暖房設備と建築手法が飛躍的に進歩したおかげです、日本のどの地方にいても年中快適に生活できるようになりました。文明の進歩ですね。昔はやれ暑いとかやれ寒いとかいって避暑や避寒に出かけたようですが、いまや必要なし。出不精の散人にとっては有り難い時代です。

馬鹿なネコ(ピカチュウ)

フランス語の勉強開始

昨年末からフランス語の勉強をはじめました。何を今更という感じですが、"never too late" の精神です。家内がフランス人なので小生も不自由がないと思っておられる人が多いのですが実は出来ない。家内とは最初は英語で話しその後すぐ日本語で話すようになり以来それがずっと続いています。仕事でも使わないし、なんやかやと忙しく勉強する時間がなかった。昨年11月に一念発起しルモンド記事を翻訳してみることにしました。

最初はとても難しかったのですが、続けて行くと少しずつですがだんだん読めるようになるから不思議です。語学というものは語彙が決め手ですからとにかく単語の量です。単語が分かってくると今度はテレビも分かるようになるから面白いし、やがては話したり書いたり出来るようになるはずです。会話は最後なのです。日本では昔の読み書き重視の教育方法の反省から会話教育がもてはやされますが、やはりそれは逆だと思う。新聞も読めないのに話すことは出来ませんし聞いても分からない。幸い時間がいっぱいあるので十年がかりで挑戦することとしました。

マックの iPhoto という写真整理ソフトで昔の写真を整理しはじめました。スキャナーで取り込むのですが、時間がかかるのでぼちぼちやっています。整理していて思いもかけない写真に出会ったりすると感慨深いものがあります。昔の写真を懐かしがるとは、散人も歳をとりました。

家族
***
家内は最近頻繁にイラク戦争に反対するデモに参加しています。きのうも出かけた。1968年5月ドゴール打倒の大デモに参加した68年5月世代なので、やはり昔の血が騒ぐのでしょう。日仏家族会の活動でも忙しくほとんど毎日外で何かやってます。散人はもっぱら主夫業に専念。

息子の暁ですが、卒業制作やアメリカでのCGコンテストへの参加作品の製作で先週までほとんど寝ないで仕事をやってましたが、ようやくそれも終わり、二年ぶりでフランスに出かけています。フランスには同じ年頃の男の従兄弟が二人いるので、三人でわいわいやるのが一番楽しい様子(写真送ってきました)。4月からいよいよ就職です。鬚を生やしていますが、デザイナーだといってもやっぱり会社じゃ駄目でしょうね。剃らせないといけないな。

最後にネコ(ピカチュウ)ですが、相変わらずエライ元気です。ネコ扉を付けたので、外出は自由自在。近所にも出かけていきますが、あまり人に迷惑をかけることをしないと良いのですが・・・。ヘンな格好をして昼寝をするくせも変わりません。

珊瑚集: ましろの月 ポオル・ヴヱルレヱン


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

ポール・ヴェルレーヌ
原文       荷風訳
(La lune blanche) PAUL VERLAINE
La lune blanche
Luit dans les bois ;
De chaque branche
Part une voix
Sous la ramée...

O bien-aimée.

L’étang reflète,
Profond miroir,
La silhoutte
Du saule noir
Où le vent pleure...

Rêvons, c’est l’heure,

Un vast et tendre
Apaisement
Semble descendre
Du firmament
Que l’astre irise...

C’est l’heure exquise.

(La Bonne Chanson)
ましろの月 ポオル・ヴヱルレヱン
ましろの月は
森にかがやく。
枝々のささやく聲は
繁のかげに
ああ愛するものよといふ。

底なき鏡の
池水に
影いと暗き水柳。
その柳には風が泣く。
いざや夢見ん、二人して。

ひろくやさしき
しづけさの
降りてひろごる夜の空。
月の光は虹となる。
ああ、うつくしの夜や。
単語
luire 《文》 光る, 輝く. 反射する, 反映する.
ramée 〈女〉葉のついたまま切り取られた枝, 柴《文》 枝の葉
saule 〈男〉  植物 柳.
apaisement〈男〉(苦しみなどを)静める〔和らげる〕こと, 鎮静,
astre [astr]〈男〉天体, 星. 詩 太陽〔月〕.
iriser [irize]〈他〉  虹色にする.

「ましろの月」とはすごい表現です。普通は「白い月」と訳してしまう。それから「ああ愛するものよといふ。」という何か字余りみたいな表現がなんともいえ ない。また林芙美子で恐縮ですが、彼女の「蒼馬を見たり」でも「元気で生きていてくださいと呼ぶ。」とやはり字余りみたいな印象的な区切りがありました。 彼女は荷風の訳詩が大好きだったから、きっと真似したのだ。"saule" を「水柳」としたのはおさまりを考えてでしょうね。柳は水際に生えるものだから間違っては居ない。普通「天体」を意味する"astre" が「月」と訳されていますが、詩文では太陽とか月を表すんですね。星というのは詩人にとってはあまりにも遠い存在なのだ。

余丁町散人 (2003.3.22)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年3月19日水曜日

珊瑚集:ぴあの ポオル・ヴヱルレヱン


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

ポール・ヴェルレーヌ
原文       荷風訳
(Le piano...)  PAUL VERLAINE
Son joyeux, importun d'un clavecin sonore.
(Pétrus Borel) 

Le piano que baise une main fréle
Luit dans le soir rose et gris vaguement,
Tandis qu’avec un très léger bruit d’aile

Un  air bien vieux, bien faible et bien charment
Rôde discret, épeuré quasiment
Par le boudoir longtemps parfumé d’Elle.

Qu’est-ce que c’est que ce berceau soudain
Qui lentement dorlote mon pauvre être ?
Que voudrais-tu de moi, doux chant badin ?

Qu’as-tu voulu, fin refrain incertain
Qui vas tantôt mourir vers la fenêtre
Ouverte un peu sur le petit jardin ?
(Romances sans Paroles) 

ぴあの ポオル・ヴヱルレヱン



しなやかなる手にふるるピアノ
おぼろに染まる薄薔薇色の夕に輝く。
かすかなう翼のひびき力なくして快き
すたれし歌の一節は
たゆたひつつも恐る恐る
美しき人の移香こめし化粧の間にさまよふ。
ああ我思ひをばゆるゆるゆする眠りの歌、
このやさしき唄の節、何をか我に思へとや。
一節毎に繰り返す聞えぬ程の REFRAIN は
何をかわれに求むるよ。
聞かんとすれば聞く間もなく
その歌声は小庭の方に消えて行く。
細目にあけし窓のすきより。

ヴェルレーヌの「ことばなき恋歌」からです。優れて音楽的な詩を書いたヴェルレーヌですが、これは「ピアノ」と題したそのものズバリの音楽の詩。ランボー との放浪時代に書かれたものです。荷風は音楽が好きでした。でもピアノは弾かなかった。漱石の『猫』にヴァイオリンを弾きたいがガキ大将の制裁が怖いとい うお話しがありましたが、荷風も軟派だとして学校時代ひどく虐められたから、その上ピアノまで弾いたら目も当てられなかったのでしょうね。制裁を加えたの が陸軍大臣になったりなんかして、それも荷風が軍人を嫌った理由のようです。"le soir rose et gris vaguement"  を「おぼろに染まる薄薔薇色の夕」と訳してますが、素晴らしい。でもどうして "Le piano que baise une main fréle" を「しなやかなる手にふるるピアノ」と婉曲的に上品に訳したのかな。「しなやかな手に接吻するピアノ」と直訳したほうが、ちょっとエロティックでよかった のじゃないかと思うけど・・・。

余丁町散人 (2003.3.19)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年3月15日土曜日

La dictature du sourire éclatant (2003.1.15) 白く輝く笑顔が社会を支配

2003.1.15
我が道を行くフランスでも歯列矯正などの口許の美容が大流行のようです。アメリカの影響ですが、これもグローバリゼーションですね。日本では、少しぐらい八重歯の方が「かわいい」となるらしいのですが、十年後はどうなっているのだろう。親たちは子供の歯並びをもうちょっと考えた方が良いかも知れない。

La dictature du sourire éclatant (2003.1.15)

白く輝く笑顔が社会を支配

歯を白くすること、それを見せびらかす為に何でもすることが、本当の社会的強制となってきている。

「歯を清潔にしましょう」と歯磨き粉の香りをかすかに振りまきながら鼈甲眼鏡をかけた白衣の歯科医がみなに演説する、そんな時代はもう終わった。この快楽の時代には、正統的な歯医者さんは、昔は商業的と見なされていた美容目的の矯正歯科医のかげにすっかりかすんでしまった。多くの病院や歯科クリニックでは「笑顔(歯並び)の治療診断」が実施されているし、「笑顔(歯並び)」についての学際的なシンポジウムまで開かれるくらいである。この意味するところは重大である。昔は虫歯の治療や予防のためにしか歯科医を訪れることはなかった。しかし今や歯科医に行くのは、義務的とまでになった美容歯列矯正のためとなりつつある。歯を健康状態に保つというよりも、歯を完璧に美しくすると言うことが関心事になってきているからである。

歯並びをピアノの鍵盤のように完璧に矯正することや、歯のエナメル質を完璧に真っ白にするいうのは、もはやショービジネスに携わる人たちだけの義務ではなくなっている。きれいな歯という切り札があれば、人生に成功することが出来るのだ。「この二三年、美容目的の歯科矯正が急増している。人々は歯のほんのわずかは欠陥でさえ競って直したがる」とパリの歯科医はいう。セラミックの歯に植え替えたりすることから、歯の裏側にこっそりと宝石を埋め込んだりすることさえするのだ。この関係の治療はほとんどのケース患者の全額負担となる。圧倒的に一番多いのは、歯を白くする治療であり、800ユーロほどかかるが、特殊なゲルを特別光線を当てて活性化するものである。

今後は、この治療を自宅でも出来るようになる。アメリカの企業グループに属するランブラント社は、「特別な白くする歯磨き」で有名であるが、このたび医療局からこの歯を白くする漂白剤の販売許可を取得した。これは過酸素剤をベースとした薬剤で、特別の器具を使用して、一日一時間、2週間に渡り歯に施すことになる。18ヶ月毎に定期的にやる必要がある。タバコを吸ったりコーヒーを飲んだり、コケモモのジャムが好きな人はもうちょっとこの間隔を縮める。

7月以来、この薬剤「ランブラントプラス」(ひとつ60ユーロ)はフランスで5万個売れた。同社はこれは時代の流れに沿ったことだとして「白い歯は社会生活を有利にする。もし貴方の笑顔が美しいと、人からちょっとしたサービスを受けやすくなる」という。「十年以内に、米国のように、歯の漂白は日常的な身だしなみとなる」と。

この完璧な歯並びやアメリカ型の「笑顔」を熱狂的に信ずる人たちは、職業上、また私的生活に於いても、外観は決定的な重要性を持つと主張する。完璧な歯並びでないと、忙しい都市の単身者達の間で今流行している「スピード・デイト」でパートナーを獲得するチャンスは難しくなるのである。

歯のエナメル質が黄色いことは、テレビ番組出演の候補者の中からまずその候補者を外す理由となる。画像で笑顔を振りまこうとすればするほど、逆説的なことも起こる。マドンナのような金歯や、ミック・ジャガーのダイヤモンド歯はちょっと「アウト(流行遅れ)」になりつつあり、最近のジェット機族の一部では、トム・クルーズやフェイ・ダナウェイのような人気俳優のように、金属製の輪冠を見えるように歯に付けるのが流行りだしている。それを見て人は子供時代の歯列矯正器にノスタルジーを感じるのだ。

長い間、歯ブラシの消費が立ち後れていた国(フランス)にとっては、確かにこの新しい趣味の勃興を否定的に判断することは出来ないだろう。しかし一部の専門家はちょっと行き過ぎではないかと心配している。「正常な状態に戻して、患者を気持ちよくさせるという限りにおいて、美容歯列矯正は正当なものだ。問題は、プロは常に過剰な消費者の需要には抵抗しがたいと言うことで、それはもう笑顔(歯並び)の独裁制と言って良いほどにまで進んでいる」とパリの歯科医は言う。笑顔(歯並び)というものは、学問的な正常性の規範で定義されるべきものだとして「犬歯が下唇に輕く接すること」が規範であると最近のシンポジウムでさる専門家は、対立する意見を否定して、歯並びの基準を厳密に定義した。

このような傾向は、パリの病院の胃腸科医エヴァ・アメイセン博士をイライラさせる。「美学的に、また統計的に、外見が完璧な人間というのは存在しない。完璧を追求することは最終的に紋切り型を寄せ集めることになる」と彼女は言う。「ちょっと欠陥があった方が、時としてそのひとの個性がより表れることになる。しかし自分の子供を完璧な歯並びを持った子に育てようと必死で、それをやらないのは無責任と信じている親たちに、これを説明してもなかなか分かってくれない」という。

今、服装コードについては緩和の方向にあるのに、人体についてはその逆で、完璧さを求める傾向にある。これが美容整形が花盛りであることに繋がっている。今米国で流行りだした最先端の例であるが、若い女性の間で、完璧な、小さい縦長の「おへそ」を求めて、おへその整形手術が流行っている。こういう事実からして、クローン人間製造が遺伝子造作に繋がることは間違いないところである。

Jean-Michel Normand

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 15.01.03

2003年3月13日木曜日

〔再録〕荷風と月 ー『断腸亭日乗』の驚くべき正確さー






荷風と月 ー『断腸亭日乗』の驚くべき正確さー  2003.3.13

3月10日の「きょうは何の日」で述べましたが1945年3月10日に東京大空襲がありました。一夜にして死者10万人以上を出した大惨事であり、永井荷風の偏奇館も炎上しました。この晩の『断腸亭日乗』の記述は40年以上に渡る荷風日記の中で白眉とも言える立派な文章であり、いつ読んでも自然と背筋が真っ直ぐになります。今回のテーマは、この名文の中で「月」が出てくることについてです。荷風は月を愛でる人であり、いろんな作品の中で「月」を実に効果的に配置しているのですが、この日記にも出てくるのです。空襲の阿鼻叫喚の描写の中に「月」が出てくる。「下弦の繊月凄然として愛宕山の方より昇るを見る」と書いている。空襲と月とはいかにも場違いとの印象ですが、それが故に何とも言えないもの凄さがあって実に効果的なのです。全文を引用しますので是非お読みください。

<引用はじめ>
三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を願望し到底禍を免るること能はざるべきを思い、早くも立迷ふ煙の中を表通りに走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難しかるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火がありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出で溜池の方へと逃がしやりぬ、余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり、余は風の方向よと火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもすこし知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮宅の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドルスペルゲル氏褞袍にスリッパをはき帽子もかぶらず逃来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつつあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて來り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てて逃来りし由を告ぐ、余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒煙風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼少からぬ蔵書の一時に燃るためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅をも危く見えしが兵卒出勤し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸気ポンプ二三台來りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためここにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、
<引用終わり>

何度読んでも凄い文章だと思います。でもちょっと出来すぎた感じもある。だいたい空襲とは新月の夜にやるものではないのか、荷風は効果を狙って「下弦の繊月」を捏造したのか、とけしからぬ疑問を抱きました。で、調べてみました。インターネットとはこう言う時にとても便利で、ちゃんと暦のサイトがあります。「こよみのページ」というサイトで、過去に遡って月齢と月出没時間の計算が出来るのです。1945年3月10日の東京地方でのデータはこうなりました。

 月出  午前3時08分(方角115度)
 月没  午後1時12分(方角242度)
 月正中 午前8時09分(高さ 31度)
 月齢  25.4日

いやあ驚きました。まったく正確なんです。月齢25.4日とはまさに「下弦の繊月」です。月出は午前3時8分であり午前4時頃の高さは正中高度から計算すると7.7度となります。時間も正確です。愛宕山の上に顔を出した時間です。月出方位115度は荷風が休憩したスペイン大使館から見てちょうど愛宕山の方角となります。方角も正確です。ちなみにこの日空襲が始まったのは午前0時8分であり、月はまだ出ていなかったので米軍機は定石通り闇の中を飛来したということで空襲と月も矛盾しない。

『断腸亭日乗』は記録と言うよりは創作であるとする「学説」が信じられてきましたが、こと客観的な記述ではこのように驚く程正確なのです。阿鼻叫喚の中でこれだけ冷静で居られた永井荷風とはやはりただ者ではないのです。


2003年3月11日火曜日

国際連合(United Nations)と連合国(United Nations)

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2003.3.11
イラク問題では日本は世界から無視された格好だ。誰も日本の首相の意見など聞きに来ないし、フランスのシラク大統領やド・ヴィルパン外相の国際社会における凄まじいまでの存在感と較べるとまことに影が薄い。中東は地理的に遠いといってもお隣の中国の意向は重視されるだからやりきれない。でもこれが現在の国際連合を中心とした国際秩序というものなのである。こと安全保障の問題となると常任理事国五カ国が圧倒的な発言力を有する。これは国際連合の設立の経緯から考えれば当たり前のことである。

以前ネットニュース(インターネットフォーラム)で、参加者のあまりに夜郎自大的な発言に辟易し今の「国際連合」とは戦争中の「連合国」の名前と実質を継承したものであり日本は身の程をわきまえろと述べたら、激烈な感情的反発を買ったことがある。デマだとまで言われた(HPに「靖国神社問題」としてスレッドを収録)。日本が連合国の手下になったなぞと言うことは「ニッポン・ナショナリスト」にとっては耐え難い屈辱であったらしい。でも1942年にローズベルトの提案により「連合国」を正式には「United Nations」と呼ぶこととなったこと、国際連合発足の際に「我ら連合国の人民」が「国際連合(United Nations)」を作ると宣言したことは、国連憲章にも書いてある通り歴史的事実である(国連憲章の書き出しは、WE THE PEOPLES OF THE UNITED NATIONS DETERMINED...で始まる)。連合国を「allied」と呼ぶのは通称に過ぎない。国連憲章には旧敵国条項もあるし、安保理の常任理事国は第二次大戦の戦勝国で構成されている。国連は今でも「悪の枢軸と戦う連合国」のままなのである。ところが日本では 「United Nations」の二つの意味を「連合国」と「国際連合」にうまく使い分けて和訳してしまったので、そのへんよく理解されていないようだ(ちなみに中国では国連のことを今でも「連合国」と呼んでいる)。これが日本人が国連は世界の国々が民主的に物事を決める機関であるとのある種の幻想を抱くことにつながっている。でもそのような「ナショナリスト」も今度のイラク問題をめぐる世界の動きを見てだんだん現実が分かってきているのではないか。いずれにせよあまり愉快な事実ではない。この国連(連合国)中心の世界秩序は当分続く。すくなくとも現在の国際連合で国際問題に対処できないとはっきりした時点でないと新しい仕組みの検討さえも開始できないだろう。

ところがここにきて「連合国」内部で新たな亀裂が生じ始めている。国連発足直後からイデオロギーの対立から連合国内部で対立が発生したのであるが、その対立が漸くソ連の崩壊で解消したと思ったら、今度はフランスとアングロサクソンの対立となった。アメリカに言わせれば我々がヒットラーから助けてやったのに何をフランスは生意気なことを言うかと言うところだろうが、フランスはド・ゴールのおかげで少なくとも形式的にはれっきとした戦勝国となったことは紛れもない事実であり、そんなこと言われても片腹痛いだろう。本稿を書いている時点では、まだアメリカは国連の新決議なしにイラクに攻め込むとははっきり言っていないが、フランスの拒否権発動は間違いないところであろう。展開次第では国連の権威と協調体制に相当傷つくことになるのは事実である。それが国連に替わる新しい国際秩序の枠組み作りに結びつくのであろうか。そういう期待をする人がいることは理解できるが、これまた非現実的だろう。米仏の対立はプラグマティズムの手法に関する対立といってもいい。背景には地政学的な利害の相違があるが、状況が変われば簡単に利害は一致するのだ。米仏関係はなにせアメリカ独立戦争の時代からの緊密な関係である。アングロサクソンとフランスの文化的近似性は表面的な違いにだけ目を奪われる日本人の想像以上のものだ。結局仲直りをするだろう。

朝鮮半島で有事が起こった場合も現在の安保理常任理事国の判断で物事が決まる。直接の当事者である日本と韓国の意見はアメリカと中国と通じてでないと表明できないのである。ドイツはこのような国際社会における己の立場を十分理解しておりフランス(欧州)に急接近することでフランスを通じた形ではあるが国際社会への発言力を確保した。ドイツはフランスとドイツの国籍を共有化することまで提案している。ドイツとしてはきわめて現実的な選択である。それに対し日本では未だに中国に対して感情的な敵意を露わにする人が多い。反米感情もある。日本が中国や韓国とドイツとフランスのような親密な関係を築くには一体何百年かかるのであろうか。昨今やたらに元気がいいいわゆる「ニッポン・ナショナリスト」は、中国やアメリカとの対立をあおり立てることで、逆に日本の国際的孤立化と小国化をめざしていると言っていい。現実をはっきり認識し、その上に立った建設的な思考が求められる。

2003年3月7日金曜日

Le Monde : 未来の兵隊

2003.3.7

「未来の歩兵」と題するとても面白い記事がありました。いくら飛行機やミサイルが進歩しても戦争を最終的に決するのは歩兵。歩兵の戦い方については、人間の本質に関するものであり、実に奥深い議論があります。散人も科学の進歩が歩兵やサラリーマンのチームワークのあり方に影響を及ぼすとの仮説を立てていましたが、この記事はそれを裏付けるものであります。散人がむかし書いた「21世紀型チームワーク」と企業理念 (1997/12)も読んでね。

でもとても悲しいことは、最新の科学技術の進歩があっても兵隊の仕事は決して楽にはならないと言うことです。「兵隊に楽をさせるためではない」とエライ人がいっている。戦後の技術進歩もおなじ。主婦は電気釜のおかげでたいへん楽することが可能になりましたが、お父さんの仕事はITの進歩で逆にきつくなっている。不条理です。


Soldats du futur (2003.3.6)
未来の兵隊


2004年から米国の歩兵は電子器具で装備され、従来からの陸上戦闘方法を大きく変えることになる。

遠くからM4ライフルと迷彩服にクブラー製のヘルメットと防弾チョッキを付けたこの「ランド・ワリアー」と呼ばれる新型陸上戦闘員達の訓練を見ると、普通の米国歩兵と何ら変わらないようにみえる。しかし、近づいてよく見るとびっくりするほどの違いである。銃には三つの長くて黒いチューブがネジ止めされている。左側には300メートル先の物体を拡大してみることが出来るズームカメラが取り付けてある。遊底には熱により人間やエンジンを夜でも霧の中でも粉塵の中でも探知できる熱探知装置。弾倉の近くには2キロ先まで正確に距離を測ることが出来るレーザー装置。これらの映像はすべてヘルメットの前にぶらぶらさせて取り付けてある2.5センチのミニスクリーンに表示されるので兵隊は自分の目のところにそれを持ってきてみることが出来る。

さらにこの「ランド・ワリアー」はどんな知らないところででも絶対迷うことがない。GPS装置が防弾チョッキのポケットにしまわれているからだ。いつでもスクリーンの上に地図を呼び出して自分の位置を知ることが出来る。そのシステムはすべてベルトに埋め込まれたミニコンが制御する。

しかし一番すごい点はこの「ランド・ワリアー」の装備は見えない点にある。各兵隊は常に他のメンバーと移動型で最新型の無線でつながっている状態にある。胸のところに小さなデジタル無線器がはめ込まれてあり送信受信とも自由自在だ。スクリーン上に興味深い物体を捉えるとボタンを押すだけで仲間全員にそれを伝えることが出来る。ヘルメットについて居るマイクで仲間全員に話しかけることが出来る。このマイクは発声時の頭蓋骨の振動をとらえるタイプであるから、どんな騒音の中でもかすかに囁くだけで通信が可能だ。スピーカーはヘルメットに埋め込まれている。外付けの二つのマイクは150メートル先のかすかな物音でも探知可能だ。大音響となると自動的に消音機能が働くので鼓膜を痛めることもない。

GPS装置とレーザー装置はお互いにデータ交換するようになっており、常に歩兵は仲間の歩兵がそれぞれどこにいるかスクリーンに表示させて知ることが出来る。もし一人が銃で仲間を狙ってしまうとヘルメットから警告音が発せられる仕組みだ。

電子メールも送ることが出来る。最新の技術進歩にも拘わらず下士官は一定の時間には必ず報告書を文書で書くことが義務づけられているからだ。スクリーン上のバーチャルキーボードか無線機に取り付けたボタンを押してテキストを書くが、あらかじめ用意された定型報告書文案リストの中から選んでもよい。

「ランド・ワリアー」は同時に後方部隊ともつながっている。司令部では歩兵部隊がどんなに遠くにいようとも戦場で何が起こっているのかを知り、直接歩兵と話すことも出来る。砲兵隊は、歩兵がレーザーでとらえた敵の位置を瞬間的に正確に知ることが出来る。この装備は歩兵が24時間活動できるだけの電力を供給する電池込みで全部で6キロの重さである。

民生電子機器の進歩によりこのことが可能になった。2004年の早い時期から陸軍歩兵部隊の相当数の部隊に導入が予定されている。この二月には実際に演習でテストした。いまは最後の調整作業に入っている。

担当の大佐はこう言っている。「最初は兵隊達が新装備になれるには少なくとも2週間位かかると思っていたが、実際には午前中だけで大丈夫だった。ビデオゲームやインターネットで遊んでいる世代はこれを直感的に理解することが出来る。これは従来の戦法を根本的に見直しすることにつながる。いままでは歩兵が敵陣に突撃をかける時は、どうしてもグループを作りお互いに見える距離に固まる傾向があった。これは本能的なものできわめて強い感情である。でもこの電子装備のおかげでお互いに常にコミュニケーションが取られることで歩兵は散開できることになり、もっと冒険的な展開が可能になる。これで兵隊間のコーディネーションがよくなることはもちろんだが、もっと大胆に創造的な戦術が可能になる。最初は米国の歩兵が土地勘のないところでの市街地戦などで有効だと考えていたが、今はすべての戦闘で有効であることが分かってきた。これは一部の古い人間が心配するように歩兵の仕事を楽できれいなものにするということではない。戦争とは常に疲労困憊し泥だらけになるものだ。決して歩兵達を手を汚さない技術家集団に変えるつもりはない。我々の目的は、決して兵隊を楽をさせようと言うのではなく、兵隊の殺傷能力を増加させることにあるのだ」という。

(以下、未来歩兵の次世代バージョンについて等。略)

Yves Eudes


・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.03.03

2003年3月5日水曜日

Le Monde フロイトなしに夢を見ることが出来るか? 2003.3.5



夢のメカニズムについての大脳 神経生理学者の最近の研究です。難しいけれどとても面白い。フロイトの理論が生化学的に裏付けられた格好です。夢というのは目覚める瞬間に見るものなの だ!


Peut-on rêver sans Freud ? (2003.3.2) 

フロイトなしに夢を見ることが出来るか?

目覚めから夢が生まれる。この最近の神経バイオロジー のアプローチは精神分析とは矛盾しない。

1899年に『夢の解釈』が出版された。このなかでジ グムンド・フロイトは精神分析の基礎を築き「無意識の意識にたどり着く王道を」切り開いた。一世紀が経過してもこの夢の分析は精神分析の実践面で大きな柱 の一つとなっている。いま最近の神経科学の研究の結果、この手法の生化学的な原理がようやく分かるようになった。

夢とは一体何か? 一連の支離滅裂で不思議な出来事や 言葉の連続であり、時として叙述しがたいものである。しかしフロイトによればそれは多くのことのほんの表面にしか過ぎないと言う。どんなの馬鹿げた夢でも 変形していても厳格な理論で説明できるのだ。そのシンボルの裏に隠れた意味を引き出すためには、いくつかの大原則に基づきその解釈に取り組む必要がある。 大原則とは、夢は抑圧された欲望の実現或いは挫折であり、幼児期における記憶がその根本にあり、最近の出来事の場合は日中の日常生活での記憶が「材料」と なっており、夢分析の仕事は、その「材料」を暗号解読の方法で分析し、「隠された意識」を抑圧のバリアから引っ張り出すことにあるとされる。夢の分析に専 念して、精神分析医の助けを借りて、出来るだけ自由に意識を解放させることで、その根元にたどり着くことが出来るのである。

フロイトの天才はその手法を見つけ大きな道を切り開い た。実践ばかりではなく理論も発展させた。「この夢の分析解釈は、精神分析の手法がその後それから発展して進歩するにつけ、だんだん基本的なものではなく なってきたが、それでも夢分析は患者の精神状態を図る圧力計のようなものであり重要なものとして残っている」と精神分析医は言う。しかし神経工学の専門家 達は素晴らしい発見をした。神経工学で夢のメカニズムを分析するやり方は、必ずしも精神分析医の開祖がやった方法ではないのだ。

「フロイトの方法ではなくてどうやって夢を理解するの か」というのが2002年19月号の雑誌「科学と将来」が神経工学者ソフィー・シュワルツ博士の論文の前書きとして書いた言葉である。博士は「神経生化学 的な」アプローチの結果、夢というものは眠っている間の脳活動の歪みの直接的な結果であると発表したのである。この歪みが夢の中で現実が不思議な具合にゆ がめられることに繋がるのだ。知っている人の顔が怪物の顔になったり、常識はずれの大きさに拡大されたり、いろいろの色や白黒で混ざり合ったりするのだ。

コントロールの不在

こういう仮説は何故僕が巨大な犬の夢を見たのかは説明 するが、どういう理由で犬の夢を見たのかは説明しない! というのがフロイトの門下生達が唱える反論であろう。二つの流派は永遠に一致しないものなのだろ うか? 補完関係にあるのではなく折り合えないものなのだろうか? 現実は幸いにしてもっと微妙である。生化学者と精神分析医と対話は合致しないようにみ えるが、その時点に於いて彼等は大きな考え方において近づいているのである。脳神経系統のアナログ的働きという点なのである。神経性学者のタッシン博士 は、非常に有望な、二つの考え方をまとめうる、夢のメカニズムについての仮説を提案している。

眠りの間に於いては、大脳の皮質は二つのタイプのコン トロールが存在しない状態で機能している。眼や耳からはいる情報などの外部感覚によるコントロールと、神経変調器と呼ばれる脳神経の活動を上部から見張っ ている特定の脳細胞によるコントロールである。タッシン博士は「睡眠の間は皮質の活動は前日に形成された記憶に狭い範囲で依存しながらのものとなる。別の 言葉で言えば脳中枢神経のアナログ的(類推的)働きに依存するのである」とのこと。

成人の脳には二つのモードでの記憶の蓄積がある。一つ は迅速な記憶であり、アナログ記憶とも呼ばれるが、零点一秒程度の間に無意識のうちに記憶される情報である。もう一つはゆっくりとした記憶というものであ り、認識の記憶と呼ばれるが、情報が記憶に蓄積される前に十分意識的に分析されるものである。数学者のホップフィールド博士は、繰り返し繰り返し情報が脳 にはいることで記憶を形成すると同時に連想を形成すると脳のアナログ的働きを説明する。「船を見るたびに同時に黄色い雨合羽と無線アンテナを見ると、しま いに雨合羽と無線アンテナを見るだけで船を思い出す」と説明する。

神経の再活性化

それで夢はどうなったのか? その点に入る前に、なぞ の正体を見極める一つの鍵を紹介する。正常な眠りの期間には「マイクロ覚醒」と呼ばれる非常に短い覚醒の期間がたくさん混じっているのである。ほんの数秒 の覚醒期間だが、一晩中で何十回と起こるのである。これが重要なのであるが、動物実験によればこの覚醒期間になるとすぐに神経の変調器が作動することが分 かったのである。ここがタッシン博士の仮説の重要なところであるが、思案させるものであり、とても魅力的な仮説なのである。夢は目覚めることから発生する のだ!

「われわれが安定した覚醒にある間は我々の脳の認識機 能は我々の行動と思考と一貫性のあるものとなる。しかし、この「マイクロ覚醒」の期間は神経の変調器が急に活動にはいるため、急に呼び出された「記憶」の 内容が現実の認識として引きずられることになるのである。この作用はほんの零点一秒ぐらいの間で起こるため正常な覚醒状態では機能する大脳の抑制機能が働 かないことになる」と博士は説明する。そこで「おかしな」夢を見ることになり、その夢の分析解釈が重要になってくるのである。

実際に、睡眠中は我々の脳の「記憶」は偶然に動き出す のではない。「動き出すチャンスの高い記憶とは一番安定した形で保持されている記憶である。別の言葉で言えば一番重要なもので、一番感情を伴うものであ り、幼年期に獲得したも記憶である。これは夢を見た日の記憶とは異なるものである」と脳神経生化学者は強調する。この研究の方向が有望ということはフロイ トは間違っては居なかったということである。フロイトの言ったように、脳が完全に目覚めないために夢が機能するのであり、夢はまさに「安眠の守り神」なの である。

Catherine Vincent

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 02.03.03


2003年2月17日月曜日

珊瑚集:そぞろあるき アルチュウル・ランボォ



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

アルチュール・ランボー
原文       荷風訳
Sensation       Arthur Rimbaud
Par les soir bleur d’été, j’irais dans les sentiers,

Picoté par le blés, fouler l’herbe menue :

Rêveur, j’en sentirais la fraîcheur à mes pieds.

Je laisserai le vent baigner ma tête nue.


Je ne parlerai pas, je ne penserai rien :

Mais l’amour infini me montera dans l’âmes,

Et j’irai loin, bien loin comme un bohémien,

Par la Nature, - heureux comme avec une femme.

(Poésies)

そぞろあるき         アルチュウル・ランボォ

蒼き夏の夜や
麦の香に醉ひ野草をふみて
小みちを行かば
心はゆるみ、我足さはやかに
わがあらはなる額、
吹く風に浴(ゆあ)みすべし。


われ語らず、われ思はず、
われただ限りなき愛
魂の底に脇出るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いよ遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。



『珊瑚集』にただ一つ収録されたランボーの詩です。岩波の解説によれば、荷風がフランスにいた頃、ランボーは今日ほど有名でなく、荷風はこの詩を「ワルク の詞華集」から引用したものでランボー単独の詩集を持っていなかった可能性もあるとのこと。確かに荷風が読んだフランス文献リストを探してもランボーの詩 集は載っていません。でも荷風が選んだこのランボーの詩は、のびのびしていてなかなか良いものだと思う。ボードレールの「気持ち悪い」言葉より日本人好み じゃないかしら。

「恋人と行く如く心うれしく」なんて書いてあるので単なる「恋愛願望」の詩かと思えてしまうのですが、小林秀雄によればそれは間違っているとのことです。 小林によれば「ランボーには色情詩はあっても恋愛詩というものは一つもありません」とのこと。「彼はいつも血腥い絶対糾問者でありました。命をかけた詩作 さえ、馬鹿馬鹿しい愚考とみえた彼の眼に、恋愛とは一体どの位やりきれない汚物とみえたか、私がここで語るも愚かでありましょう。」と小林秀雄は語ります (「アルチュル・ランボオの恋愛観」)。もっと「上等の」感情を詠ったものなのであります。はい。

ちなみに林芙美子は荷風の『珊瑚集』をぼろぼろになるまで愛読したとのことです。このランボーの詩からも影響を受けなかったわけはない。下の詩は林芙美子 の『蒼馬を見たりー自序』の最初ですが、似ていると思いませんか?

  ああ二十五の女心の痛みかな!

  細々と海の色透きて見ゆる
  黍畑に立ちたり二十五の女は
  玉蜀黍よ玉蜀黍!
  かくばかり胸の痛むかな
  二十五の女は海を眺めて
  只呆然となり果てぬ。

今般出た川本三郎『林芙美子の昭和』は良書です。庶民の目から見た昭和という時代が、戦前戦後の連続性も含めて、非常によく描かれています。靖国問題の理 解にも繋がります。さすが東大法学部だけあるなあ、川本三郎。

余丁町散人 (2003.2.17)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年2月10日月曜日

Le Monde : おいしいポートーフ(肉と野菜の鍋)




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2003.2.10

冬になるとやっぱり鍋物ですね。フランスでもそうみたい。特別上等のフランス伝統の鍋料理の紹介です。ポートーフは散人も大好き。でも人類で最初に鍋料理を食べたのは誰かご存じですか。実に我らが祖先縄文人なのです。視点「日本文化のルーツとグローバリゼーショ」(2000/1)をお読みくだされ。


A la bonne fortune du pot-au-feu (2003.2.9)

おいしいポートーフ(肉と野菜の鍋)

ポートーフ(肉と野菜の鍋)こそフランスの美食と渾然と混ざり合わさったものである。これは元伯爵で第三身分の代表であったミラボーが「ポートーフこそが帝国の基礎である」と恒久化して以来、シンボル的価値を持つものともなっている。

この名前は、単に、アンチョビーの切り身を十字架風に並べ、種を抜いたオリーブを添え、エストラゴンとアンチョビーを焼いた肉に添えるという「ミラボー風」の盛りつけとして残っているだけではない。

名前から分かるように、ポートーフとは昔の言葉でいう「鍋」の中で料理された料理のことでフュレティエールが1691年に言ったように「朝から鍋を火にかける」のである。あの時代から、焼き物のような乾いた料理と水気のある料理、スープ、シチュー、炒め物は区別されていたのである。「ポー」というのはゾラの時代までは、料理に使う道具の名前だった。

スープと焼き物の区別は純粋に人類学的なものなのか? いやそうではない。今日に至ってもなお、赤肉の好きな人たちやポートーフのようなスープと肉や野菜が一緒に煮込んだものを作る人たちの間でその二つは区別されているのである。

「ポー」という鍋は、最初の内は自在鈎で吊されていたが、そのうちカマドの際に置かれるようになった。

鍋の中に、まるで魔法の儀式のように、肉の塊や骨を入れて煮立て、グローブを差し込んだタマネギを加え、薬草の束も加えるのだ。

鍋の中で、肉と野菜は渾然と交わり、お互いの味を吸収する。タイムや月桂樹の香りも。ポートーフは薬草抜きでは考えられないのである。

いろいろの種類の肉が必要とされる。半分脂身が入ったバラ肉や、痩せたすじ肉やゼラチン質の部分、なかでも良いのはもも肉だが、外股肉ではなくすね肉の部分がいい。また肩の部分の脂肪が少ないところやパルロンと呼ばれる二対の肩肉の隣の部分が良い。頬肉や尻尾の部分や脾臓も肉汁の色づけのために入れても良いが、三時間ほど煮てからその部分は猫にやる。

EXTRACTION DES SAVEURS

味の抽出

肉は、冷水から煮立てるべきか水が煮立ってから肉を入れるべきか? これは実に奥の深い問題である。おいしい肉汁を出そうと思えば冷水から肉を煮立てるべきであるが、煮立てている内に味がしみ出してしまうので肉が水っぽくなってしまうリスクがある。この香りの理論に基づく現象をサヴァランはオズマゾーネ現象と呼んだ。反対に肉を水が煮立ってから入れると味が濃縮するので肉の風味が良くなるのである。

一部の家庭では、牛肉の固形スープを溶いて水に入れることで、肉は水が煮立ってから入れている。そうすると肉も味が良くなり、スープも浮いた脂を取り去ると素晴らしくしっかりしたものとなる。両者の妥協点を探る方法は、スネ肉などの味がしっかりした肉は冷水から煮立てて行き、最後は挽肉用として使い、二時間ほど経ってからもっと上等の肉を加え、その肉はそのまま食べるというやり方だ。

このやり方は、ご近所のおばさんがやっているやり方だが、もっと洗練されたやり方でやってくれるのが、パリで最近流行の伝統的なレストラン「キンシー」の豪快なオーナー料理人だ。

彼のやり方には信頼が置ける。冷水から肉を煮立てはじめ、ニンジン、カブ、ネギなどの野菜を加え泡立つまで煮立て、三分の二ほど煮てから野菜を取り出し、スープの脂を除き、肉を形良く整えて小さな野菜類と肉汁と共に膀胱の袋に入れて、袋を括って締めてからさらに一時間ほどゆっくりポーチにする。

この二回に分けて加熱するポートーフはすごい技術だが、膀胱入りポートーフと呼ばれている。サヴァランのオズマゾム現象で肉の味も素晴らしく濃縮されている。これはすごい料理である。

深皿の上で膀胱が開かれると、薫り高い肉汁が噴出し、次に肉と付け合わせの野菜が出てくる。完全なる香りの調和である。

昔の偉大な料理人ブーファンの狂気のようなポートーフの思い出が今日によみがえる。これこそもう長らくダイエットとか香油とか醤油なんかに気をとられて忘れられていたものである。

この料理にはいくつかの香辛料が必須である。脊髄の味付けのための粗塩、ピクルス、マスタード、それに西洋ワサビだ。肉を食べる前に、肉汁を完全に脂を取り除いてから、カップかスープ皿に入れて供する。もし肉汁が残ったら、後でバーミセリを入れて暖め直して食べればいい。肉が残ると冷肉を使ってとてもおいしいサラダを作ることが出来るし、トマトやズッキーニや茄子などに入れて詰め物にすればおいしいし、挽肉料理にも使える。これこそが、冬の日曜日に最適の、おばあちゃんの味、出来あわせの材料で作る素敵な料理(フォルチュン・ドゥ・ポ)なのである。

Jean-Claude Ribaut

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 09.02.03

2003年2月8日土曜日

〔再録〕荷風が最後に食べた浅草のお店は?


  荷風が最後に食べた浅草のお店は?    余丁町散人、2003.2.8
「アームチェアー・デテクティブ」という言葉があります。椅子にゆったりと座ったまま現場には出かけないで推理ゲームだけを楽しむという探偵のことで、ネロ・ウルフやポワロなどのちょっと太った連中が多い。推理に必要な材料は手下が集めてくるので十分すぎるほどあり、後は優雅に「灰色の脳細胞」を働かせるだけで見事に真犯人を突き止めるのです。ホームズの小説のあら探しに人生の生き甲斐を見いだすシャーロッキアンもその「アームチェアーに座った探偵」のたぐいですが、永井荷風もこの種の楽しみの対象としてなかなかよろしいと思います。何せ研究書が山とあるので、推理する材料に困ることはありません。今回はこの「アームチェアー推理」を楽しむこととします。テーマは「荷風が浅草で最後に飯を食った店はどこか?」と言うこと。

まず定説から行きましょう。荷風ファンのバイブルである秋庭太郎の『新考永井荷風』によれば昭和34年「荷風はこの年も正月二月の両月、雨の日も雪の日も一日たりとも欠くことなく、三月一日も正午浅草に赴き、アリゾナに於いて朝昼兼帯の食事を済ませて帰る際に発病、店先で転倒、アリゾナ主人の介抱を拒絶して独り遅々として大通りまで歩みタクシーに乗って八幡町の家に帰った。この日が荷風の浅草行きの最後となった」と重々しく書かれています。『日乗』でも「三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇い乗りて家にかへる」とあり、以降浅草の名前は出てきませんので、三月一日と言うことはほぼ間違いないところ。問題はお店の名前が書いてないことですが、秋庭太郎氏は緻密さを極めた調査によりそれは「アリゾナ」であると断定されており、それが定説となっているのです。

ところがこの定説に疑問を提起する事件が起こりました。実に映画監督の大御所新藤兼人が平成4年になって発表したものですが、荷風が浅草で最後に食事をしたのは「アリゾナ」ではなく蕎麦屋の「尾張屋本店」ではなかったかという疑問です(『老人読書日記』にも書かれています)。当時荷風を追いかけ回していたアマチュア写真家井沢昭彦氏や尾張屋の女主人の証言にとても現実感があり、荷風ファンの間に大きな衝撃を与えました。それを読んだ荷風研究家の松本哉氏はさっそく写真家の井沢昭彦氏や尾張屋の女主人に会われ、荷風が死ぬ一ヶ月ぐらい前に尾張屋でかしわ南蛮を食べてトイレでしりもちをついたとの重要証言を確認され、(新藤兼人氏は)「アリゾナを必ずしも無視しているわけではないが、尾張屋のトイレに何か真実の匂いを嗅ぎつけているのである」と新藤兼人説を支持されているのです(『永井荷風のひとり暮らし』)。

でも昭和34年の春先の出来事であり、今となっては確かめようがないところです。その後、樋口修吉氏もこの件についてアリゾナの主人に再度インタビューするなど確認されていますが「そんな本家争いのような論争をしても何も生み出さないと悟りきっている」アリゾナ主人の態度を紹介され、結論は出して居られません(「荷風と東京の戦後」(東京人1998/9)。白黒つけるのも野暮という気もいたします。

でも散人が一つどうしても納得がいかなかったことがあります。それが気になって仕方がなかったのですが、それは尾張屋の「かしわ南蛮」の量なのです。一度お食べになったら分かると思いますが、とても上品な盛りつけで、はっきり言って小生には少なかった。大食いの荷風が果たしてこれで満足したのだろうかと言うことです。荷風はアリゾナでは毎日、「タイシチューとグラタン、それにお銚子が一本。これが三ヶ月ぐらい続くと、今度はチキンとレバーの煮込みとカレーライス、そしてビール大瓶」を食べていたのですから(樋口修吉)、かしわ南蛮とは落差がありすぎる。でも荷風がほぼ毎日のように尾張屋でかしわ南蛮を食べていたことは、実際写真まであり、全く間違いのないところです。どう考えればいいのでしょうか。晩年は食が細くなったのかも知れませんが、それでも浅草通いを止めた後も、毎日近所の大衆食堂「大黒家」ではカツ丼と日本酒を食べています(あそこのカツ丼は結構ボリュームあって小生でも食べきれなかったぐらいです)。

アームチェアーに座っていろいろ書物を読みながら考えていたのですが、ある日突然重要な事実に気が付きました。松本哉氏が聞いた尾張屋女将の証言では、荷風は「毎日毎日、夏も冬も、昼過ぎにお見えになった」と述べられている点です。荷風はもっと早く朝昼兼の食事をとっていたのではなかったか? 樋口修吉は、荷風がアリゾナに顔を出すのは毎日11時半頃、時には11時前にやってきたという証言を得ています。アリゾナには昼前、尾張屋には昼過ぎと言うことなのです。荷風は食堂のハシゴをしていたのだ! 新藤兼人は写真家井沢昭彦氏の言として「荷風はアリゾナ食堂にはいる。外で待っているとまもなく出てくる。・・・荷風は逃げるように雷門を過ぎて田原町方面に行く。そして尾張屋に入った」と引用されているではないですか。このとき新藤兼人は荷風がアリゾナに入ったのは一時避難のためだろうとされていますが、そうではなくちゃんと食事をするために入ったと考えれば、すべて説明が付く。

さて昭和34年3月1日の荷風の足どりを再現してみましょう。こういうことじゃないでしょうか。

1)まず正午前(11時半)に荷風はいつも通りアリゾナにはいる。そこで食事をする。
2)食事の後、アリゾナを出る時に転倒。主人の介抱を断り荷風は大通りの方に遅々と歩いてゆく。
3)荷風は依然として遅々とした足どりで、いつも通り雷門から田原町方面に向かい、尾張屋本店にたどり着く。そこでデザートがわりにかしわ南蛮を食べる。
4)かしわ南蛮を食べた後、トイレに入って尻餅。尾張屋主人に助けられる。
5)大通りでタクシーを拾って八幡に帰る。

これでほぼすべての証言と矛盾しないこととなります。アリゾナ主人が荷風に大通りまでは付いては行かなかったが後ろからタクシーに乗るのを見たと証言していることだけが、ちょっと気になる点ですが、主人の記憶違いなのか、或いは荷風はタクシーで尾張屋まで乗り付けたと考えればいいでしょう。

荷風は頑固で執着する性格であり、神社のお神籤を引いても大吉が出るまで何度も引いたといわれています。普通アリゾナで転倒したらそのまま家に帰るものなのでしょうが、いつもの習慣に固執して尾張屋にまわったのでしょう。或いはひっくり返ったまま家に帰れば験が悪いと考えたのかも知れません。とにかく同じ日に二回も連続して無様な格好をさらしたことで、さすがに格好が悪いと思ったのでしょう。それ以来、荷風は二度と浅草には行かず、以後、近所の大黒家で甘いカツ丼を食べることになるのです。

2003年2月6日木曜日

Le Monde : バルバラの教えを聴こう

2003.2.6
死後5年、バルバラの歌が大いに注目され、売れ続けているとのこと。もうちょっと低音だったらもっと良いと思うんだけれど、これは趣味の問題で、深く訴えるものがある偉大な歌手ですね。
 


Ecouter la leçon de Barbara (2003.2.6)
バルバラの教えを聴こう


セルジュ・ウローが、この政治的関心の高く、傷ついた一人の歌手の人生を舞台化した。死後5年経って、彼女の歌はいまだに世の中に感動を与える。

バルバラは1997年11月24日、パリで死んだ。呼吸器系と消化系の炎症であった。67歳だった。彼女は死に、その前も90年代に入っては疲れ切って喉を痛めていたが、そのことは彼女がいまだにアイドル的な存在であることには少しも影響していない。今日、彼女の歌は、故ブレルやブラッサンスのものよりも多く歌われているのである。

彼女のサイト(lesamisdebarbara.free.fr)ではバルバラの友人達が彼女に関するすべての事柄を公開している。ダミア、イヴォンヌ・ジョルジュ、エディット・ピアフ、マリアンヌ・オズワルドから彼女に繋がるそうそうたる系譜図まで掲げている。セルジュ・ウローは彼の新しい芝居にバルバラを扱う。「お上品な文化はシャンソンを嫌う。なぜならシャンソンは直接的だからだ」とこの喜劇役者は言う。

彼女はいつも黒い服を着て熱狂的なファンを集めた。晩年は四方を壁に囲まれた庭のある修道院風の引きこもった。死後5年経った今、なぜバルバラの教訓的な歌を聴かねばならないのか? どうして今でもこのアンチ・ポップのスターはこれほどまでに人気があるのか? まずフランスのシャンソンは長い歴史があることを挙げねばならない。黒い服に身を固めたバルバラは昔から体験されたシャンソンを代表する宗教的存在であるのだ。

そう「体験されたシャンソン」なのだ。彼女は惨めさを歌い、よろこびを歌い、時代を歌う。彼女は有名な人気歌手ではあったが同時に政治的参加をする歌手でもあった。平和主義者で、エイズ撲滅運動の運動家でもあり、ミッテランの支持者でもあった。でもバルバラは代弁者、先人の意向を巧みに伝える人として仕事を始めていることが重要だ。1950年代には、彼女はピアフの歌をなぞりながら作詞しているのだ。

バルバラは激しく仕事をして、膨大なレパートリーを増やした。レオン・サンロフ、アンリ・フラグソン、モーリス・キュヴリエ、ポール・マリニエなどの歌である。若い作詞家の歌も多く歌った。ジャック・ブレル、ジョルジュ・ブラッサンス、レオ・フェレ、モーリス・ヴァダラン、ルネ・レヴェックなどだ。1960年には「バルバラ、ブラッサンスを歌う」でグランプリを獲得している。次にブレルの歌で。

1958年には78回転や、45回転のレコードからはじめ、以来多くの歌を発表する。

若い世代がバルバラから学ぶことの第一のものは、彼女の歌は決してゼロから作り上げたものではなく、ベースにあるしっかりした芸術的文化の上に作り上げられたものだということである。バルバラが古い歌を歌う時、それは決して世代を超える共感を求めてではなく、彼女の歌に対する愛と博識がそうさせているのである。

「世に認められない才能なぞはない」とバルバラは1981年インタビューで語った。「無理をしてデビューしようと苦しんだりせよと言うことではなく、うちに秘められた才能がないのに努力してもしようがないということ。これは宗教みたいなものでなければいけない。私より歌のうまい人はいるが、歌で人に何かを与えなければ意味がない」と。彼女は霊的なまでに魅惑的で、いろいろな伝説の持ち主であるが、一つ確かなことは、彼女は、彼女自身も、くるしみも悲嘆も、惜しみなく人に与えたということである。

心理学者がいうように、彼女は悲惨な状況を大きく強調し、何とかしようとする独特の素質に優れていた。日常的なことを取り上げ、差別の問題と戦った。ラシズムとも戦った。薬害エイズ問題とも戦った。

彼女は、長く内に隠していた自分自身の秘密も、徐々に語るようになる。ユダヤ人でありナチの恐怖におびえたこと、幼い時に父親に強姦されたこと、戦争のこと等々。

彼女の歌を聴く時、人はジェノサイドと火葬を思い起こすことになる。三年がかりで作詞した幼年期の心の傷を訴える歌もある。

バルバラは今、シルヴィー・ヴァルタンなどのアメリカン・ロックと共に若い世代に受け入れられている。しかしバルバラはそこに留まるものではない。彼女の歌は、トゥストやヌーベルバーグのMGの軽薄さに、青春に生きるくるしみ、愛が成就できないロマンチックな悲劇的なものと映る10代のくるしみを付け加えるものだ。若者の通過儀礼でもある。彼女の苦しみに満ちた人生は、彼女が訴える一枚板ではない多様な希望を抱く「若者達」に常に支持されるのである。

Véronique Mortaigne

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.02.03


2003年2月5日水曜日

瑛子姉のこと

余丁町散人、2003.2.5


一番上の姉、服部(橋本)瑛子姉が亡くなってからちょうど5年になる。1998年2月5日、木曜日夜9時頃電話で連絡を受けた。その前の日曜日に名古屋に見舞いに行ったばかりだった。見舞いに行った時は、まだ意識もはっきりしており、2時間ばかり話が出来た。手を握ると「とても暖かい」と言って放さず、ずっと握り続けていた。

瑛子姉が生まれたのは、昭和8年11月16日、父幸次は25歳、母寿賀は18歳の時だった。その年の2月、日本は国際連盟を脱退。世界恐慌のさなか、日本は軍国主義で破滅に向かって突き進んでいる時ではあったが、父は独立したばかりであったし、大阪の下町での新婚家庭はそれなりに楽しかったようだ。空襲の激化と共に一家は西宮の別宅に疎開。そこで終戦を迎える。瑛子姉は11歳だった。翌年末っ子の尚幸が生まれ、瑛子姉はたまたま近所にある学校と言うことで、神戸女学院中等部に入学。以来昭和31年神戸女学院大学英文科を卒業するまで同じ学校にいた。神戸女学院は阪神間ではピカイチの才媛学校であるが、当初はそういう意識で入学したのではなく、あくまでも近くにあったからというのが理由だったと聞いた。下の二人の姉も全く同じコースを歩むこととなる。

この神戸女学院という学校は、アメリカのミッションスクールでもあり、学生も阪神間の比較的裕福な家庭の娘が多く、一般の公立学校とは相当雰囲気が異なった。当時から、土曜日は休日、日曜日には礼拝があり、服装も制服はなく私服だった。思春期の女子学生は無理をしてでも服装で自己主張をし、毎日同じ服で登校するとちょっと引け目を感じるような雰囲気だったらしい。大阪からやって来たばかりの両親にはそのへんが理解できず、瑛子姉は父親が職業柄入手した「上等の」羅紗で作ったセーラー服で通学した。セーラー服で通学した質実剛健な生徒は、終戦直後の当時でも学年で瑛子姉ともう一人いただけだったと瑛子姉は言っていた。その他、ミッションスクールの特別のルールがいろいろあり、富山県と和歌山県生まれの両親には理解できない点が多かったようで、間に立った瑛子姉はそうとう苦労したようだ。

瑛子姉は努力家でしかも抜群の秀才だった。兄姉の中では一番IQが高かった。数学パズルとかが好きで、読む本の量も半端じゃなかった。漱石全集を自分の小遣いで買いそろえたり、ディッケンズなどの英文学はたいてい翻訳で買いそろえていた。私が小さい時に読んだ本の多くは瑛子姉の買ったものであり、今でも私がフランス文学より英文学に親近感を覚えるのは、その影響なのであろう。ピアノはほとんどプロ級で、ラジオにも出演した。家のピアノがボロだと言うことが彼女の悩みでもあり、またこれで両親ともめた。卒業後、当時としては珍しく職業婦人となり(財)関西経済連盟で事務の仕事をした。非常に有能な人だったが、女性の社会的地位は当時はまだまだ低く、学生時代には家庭と学校の文化ギャップの問題もあり、とてもストレスが高かったように見えた。結婚したのは私が12歳の時だったが、そこで素晴らしい家族に恵まれることとなり、瑛子姉は一転して、目に見えて温和になった。彼女にとって服部奎吾氏との結婚は生涯で最良の選択であったと思う。彼女はとても幸せな生活を送ることになる。

私は彼女とは年も離れておったこともあり、直接的な関係よりもむしろ間接的なつながりが大きいと思う。彼女の蔵書で人格を形成したと言っていいし、最近まで瑛子姉が卒論を書く時に使っていたヘルメスのタイプライターを使用していた。今使っている英英辞書も瑛子姉のオックスフォード・コンサイスだ。彼女の1953年付の署名が入っている。

5年前、最後に瑛子姉を見舞った時、広島に瑛子姉を訪問した時の話などをしたが、彼女は「新婚時代、特に広島で生活していた時が一番幸せだった」といった。この「一番」という言葉に引っかかったが、或いは単に「とても」という意味だったのかも知れない。別れ際に「尚幸は、もっと痩せなければいけない」と過体重を注意された。

以来節制して少しだけだが体重を減らしている。


〔注〕瑛子姉:服部瑛子(旧姓橋本)1933.11.16 - 1998.2.5

2003年2月4日火曜日

Le Monde : 経営者(パトロン)と労働(トラヴァイユ)

2003.2.4
「左のルモンド」の面目躍如という論説です。非常に基本的な命題について、敵ながらあっぱれと言えるぐらい、鋭い指摘です。経済社会で人は何のために働き、経済は何のために豊かになるのか。手段を求めて目的をないがしろにしてはいけないと言うもの。経済学的にケチを付けると、動態的(長期的)に考えなければいけないよ、と言うところでしょうが、まあそれまでには死んでしまうと言われればその通りだし・・・。


par Pierre Georges
Patron, travail (2003.2.4)

経営者(パトロン)と労働(トラヴァイユ)

フランス語というのは、社会交渉に於いては本当に恐るべき言語である。二つの言葉を取り上げてみよう。簡単な、現在までしょちゅう使われている、現在もっとも緊急案件である年金引退問題で頻繁に使われている二つの言葉である。

それは「経営者(パトロン)」と「労働(トラヴァイユ)」という言葉だ。今更言葉の意味や用法について説明する必要がないように見える。経営者(パトロン)とは、現代語では、指導者とか、企業家とか、社長とか、上司とか、職人の間では親方などの意味で使われる。ただ古典的な辞書では、パトロンという言葉はラテン語の「パトロヌス」から來ていて、その語源は「パーテル」といい、「父親」という意味であったと書いてあることについて深く考える必要があろう。「保護者」という感覚と「権威」という感覚が混じったものなのである。

しかし「パトロン」には別の意味もある。忘れかかっている言葉であるが、お菓子作りや絨毯製造で使われる意味で、ちょっと古くさいが、同時に非常に現代的でもある意味だ。「型紙」という意味で使われるのである。尊敬すべき、後に続くべきモデルとしてのパトロン(型紙)である。

さて、今度は労働(トラヴァイユ)に移ろう。すべての辞書の編者はこの労働という言葉の説明に多大の労力をかけている。どの辞書でも、労働という言葉は、ラテン語の「トリパリウム」という恐るべき拷問器具から発した、苦痛と呻きの意味を強く持つ言葉であると説明している。用法として、中世ではこの言葉が拷問という意味で使われたとか、近代においても徒弟達がヴァイオリン製作に苦しい労働をするとか、オペラ座では踊り子達が踊って死ぬほど疲れるとかである。

笑ってはいけない。今は深刻な時期なのである。現在繰り広げられている政府と労働組合の間での年金・退職問題での議論を聞くと、この辞書の言葉の定義の重要性が分かる。もし経営者(パトロン)が、字引にあるように聖人アイコンではなく、人間性からの尊敬されず、権威もなく、模範ともならないとしたらどうだろうか。パトロンが規範とするべきモデルからかけ離れていたとしたらどうだろうか。もし、いつもいつも「もっと働け、もっと長く働け、さもないとえらいことになるぞ」と繰り返すだけで、そのえらいことと言うのが労働者にとってのえらいことなのに、労働の価値を貶めることばかり言っていたら、誰も聞く耳を持たないではないか。社会計画とか企業の大規模な再配置とかいって、労働(トラヴァイユ)の尊敬すべき価値を地に落とし、それに付属して労働時間と労働期間を長くしろと言うばかりでは、いったいどうなるのか。

語源学は恐るべきぐらいに頑固である。どんな辞書にも労働とその価値と美徳について、それはそれは偉大なものだと書いてある。いまの時代は、価値という言葉を使う場合、株式市場の価値というだけで労働の価値を無視している。それがすべてのぎくしゃくをよんでいる。労働(トラヴァイユ)という言葉の意味の切り下げが進んだことが悪い。

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 04.02.03